鍋パーティーのブログ

再分配の重視を求める「鍋パーティー」の共用ブログです。

再分配の重視を求める人こそ共助を重視しよう~~『(みをつくし語りつくし)勝部麗子さん』を中心に~~<中>

 昨年の4月にタイトルに<上>と付けた記事を投稿してから随分と月日が経ってしまったが、遅ればせながら、その続編を投稿したい。

 

 <上>では、「再分配の重視を求める人こそ共助を重視すべきだ…(中略)…なぜなら、共助の場こそが、不条理にはびこる自己責任論や家族主義が打ち破られ、公助を求める態度が育まれる、恰好の場になると感じられたからだ」と書き、勝部さんを軸とした共助の取り組みを見ながら、共助の重要性を訴えた。この<中>では、稲葉剛著 『生活保護から考える』や阿部彩著『子どもの貧困――日本の不公平を考える』からも引用しながら、自己責任論や家族主義がどのように社会にはびこっているかを見ていきたい。

 

 この2つの本については、拙ブログで、「読書メモ」として、私の関心に強く偏った視点からではあるが、要約のようなものを書いた。

 

  また、『生活保護から考える』については、このブログの主催者であるkojitakenさんも、私よりずっと前に、これを中心に論じているエントリーを上げている。

拙ブログだけでは、ここでこの本から見ていきたいことについて引用できておらず、上記エントリーをあわせるとそれができるので、上記エントリーもこの本からの引用の参照先としたい。

 

 『生活保護から考える』の刊行は2013年、『子どもの貧困』は2008年と、どちらも少し古いものとなってしまっている。しかし、そこで告発されている、自己責任論や家族主義が不条理にはびこる様は、今も何も変わっていない。いや、後述するが、より酷いものとなっている。

 

 『生活保護から考える』では、家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くことが、自民党の党是であると論じられている。次に該当部分を引用する。

 自民党の目指す社会保障ビジョン
 次に、扶養義務強化の背景にある政治状況や政治理念について検討したいと思います。
 生活保護バッシングの火付け役である自民党は、二〇一二年二月に発表した「政策ビジョン」の中で、現金給付から現物給付への移行(住宅確保、食料回数券の活用等)、医療扶助の適正化、就労支援の強化、不正受給対策の厳格化などにより生活保護予算を大幅に減額させることを公約として打ち出しました。二〇一二年一二月の自民党の政権復帰後、現実性の乏しい現物給付化を除いた諸施策は実現されつつあります。
 この政策ビジョンがめざす「自助・自立を基本とした安心できる社会保障制度」像を一部引用してみましょう。
 「額に汗して働き、税金や社会保険料を納め、また納めようとする意思を持つ人々が報われること。また、不正に申告した者が不当に利益を受け、正直者が損をすることのないようにすることを原点とする」
 「『自助』、『自立』を第一とし、『共助』、さらには『公助』の順に従って政策を組み合わせ、安易なバラマキの道は排し、負担の増大を極力抑制する中で、真に必要とされる社会保障の提供を目指す」
 「家族の助合い、すなわち『家族の力』の強化により『自助』を大事にする方向を目指す」
…(中略)…「家族の助け合い」、「自助」を最優先に置き、「公助」の役割を最も後回しにする発想は自民党の「党是」とも言えるものです。
pp.120-122

その後、この政策ビジョンが新しくなったという話は聞かない。現在もこの政策ビジョンに基づいて社会保障政策が進められているということだろう。

 

 家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くことがなぜ問題なのか。それを理解してもらうには、少し長くなるが、次の節を引用することが効果的だと考える。

 生活保護世帯の高校生の声
 ここで、扶養義務問題の当事者である生活保護世帯の高校生の声を紹介したいと思います。
 二〇一三年六月一四日、衆議院第一議員会館で開催された生活保護法改正案に反対する院内集会の場で、進行役を務めていた私は、九州に暮らす高校生からいただいたメールを読み上げました。
 その前の週、私は生活保護法改正問題を取り上げたテレビ番組のインタビューに応じ、親族の扶養義務を強化することの問題点を指摘しました。その直後、私はその番組を視聴した高校生からメールをもらいました。そこには「生活保護世帯の高校生として国会議員に伝えたいことがある」と書かれていたため、私は彼女に集会に向けたメッセージを書いてもらい、その文面を国会議員も参加する集会で読み上げたのです。
 母子家庭で暮らす彼女は、かなり複雑な事情のもとで育ったようです。「私の人生は普通の高校生が送ってきた人生とはかなりかけ離れていると思います。恐らく想像もつかないでしょうし、話せば同情、偏見様々な意見があるでしょう」と彼女は言い、自分の親を恨んでいると書いています。
 専門学校に進学するためにアルバイトをしている彼女は、「高校は通学に一時間半かかる高校に通っていて朝は四時半に起きて弁当を作り、学校帰りにそのままバイトに行き、帰宅するのは二二時頃。勉強もありますし家事をしたりで寝るのは〇時か一時」という生活をおくっています。
 生活保護制度について「おかしい」と思っているのは、アルバイト代が世帯の収入とされて差し引かれてしまうことと、扶養義務についてです。
 アルバイトについて、彼女は「高校生のバイト代が生活費として差し引かれるのは当たり前のように思われていますが、学校に通い成績上位をキープしながらバイトをするということがどれだけたいへんなことか分かって頂きたい。そしてバイトをするのは決して私腹を肥やすためではないことを」と言います。
 彼女の不安は自分の将来にも及びます。高校時代の奨学金の返済は八四万円になり、専門学校に進んだ場合、さらに二○○万円以上かかる見込みだと言います。そして、親元から離れ、経済的に自立したとしても、親が生活保護を利用している限り、福祉事務所、親族としての扶養義務の履行を求められることになります。
 「専門学校も奨学金で行けばいいと言われますが、専門学校卒業後、高校の奨学金と専門学校の奨学金を同時返済しさらには親を養えと言われる」
 「私はいつになれば私の人生を生きられるのですか。いつになれば家から解放されるのですか」
 「子が親を養うことも当たり前のように思われていますが、それは恨んでいる親を自分の夢を捨ててまで養えということなのでしょうか。成績は充分であるにもかかわらず進学は厳しいというこの状況はおかしいのではないでしょうか」
 メールの最後に彼女はこう訴えています。
 「私がどうしても伝えたいことは生活保護受給家庭の子供は自分の意思で受給しているわけではないということです。生活保護への偏見を子供に向けるのはおかしいです。不正受給ばかりが目につき本当に苦しんでいる人のことが見えなくなってはいませんか。選挙権がない私には国を動かす方々を選ぶことができません。だからこそ生活保護受給家庭の子供について国を動かす方々にはもっと考えていただきたいと思います。」
 彼女は生活保護世帯の子どもたちのほとんどが沈黙をせざるを得ないなか、「私の意見を広めることで、同じ生活保護受給家庭の子供が意見を発するきっかになれば」と言っています。
 国会議員のみならず、日本社会に生きる私たち大人はこうした子どもたちの訴えに真摯に向き合う必要があるのではないでしょうか。
pp.110-113

 これが「家族の助け合い」(扶養義務)と「自助」の実態である。人は生まれを選べない。生活保護の家庭に生まれた子どもは、なんの「自己責任」もないのに様々に不利な状況に置かれ、そこで懸命に「自助」の努力をしたとしても、将来に渡って「家族の助け合い」(扶養義務)から解放されることはない。個人の尊厳と人の平等とを謳う現憲法の下で、こんなことがまかり通るのは、理不尽としか言いようがない。しかし、安倍自公連立政権の支持率は、大きな流れで見ると、最近では数々のスキャンダルが露呈しているというのに、この本が書かれた政権発足当初より高い。これが、自己責任論や家族主義が不条理にはびこる様が酷くなっていると考えるゆえんである。

 

 このように、生まれにより不公平に貧困状態におかれている子どもがいる。その広がりを統計的に示そうとしたのが『子どもの貧困――日本の不公平を考える』である。

 

 この本では、日本の子どもの貧困率が国際的に見て高いことが示されている。次に該当箇所を引用する。

  図2-3は、一九八〇年代から二〇〇〇年代前半の先進諸国における子どもの貧困率の推移を示したものである。このデータは、ルクセンブルク・インカム・スタディ(LIS)という国際機関が、国際比較が可能なように、各国のデータを同一の定義で収集したものである。日本は、この国際機関に参加していないが、 LISデータと比較可能なように、図では日本についても同じ定義を用いて貧困率を計算している。ここにおける貧困概念も、相対的貧困であり、各国における社会全体の所得の中央値の五〇%である(計算の方法が若干異なるため、図2-2とは異なる数値となっている)。
 これをみると、日本の子どもの貧困率は、アメリカ、イギリス、カナダ、およびイタリアに比べると低いが、スウェーデンノルウェーフィンランドなどの北欧諸国、ドイツ、フランスなど大陸ヨーロッパ諸国、日本以外の唯一のアジア地域の台湾などと比較すると高い水準にある。すなわち、日本は子どもの相対的貧困が他の先進諸国と比較してもかなり大きいほうに位置していることがわかる。LISのデータにおいても、本書の冒頭に述べたOECDの報告書と同様の結果が得られたこととなる。さらに、他国と比べた日本の子どもの貧困率の高さは二〇〇〇年代に入ってからの新しいものではなく、一九九〇年代初頭から見られた傾向であることが追記される。
pp.53-54

 

 そして、次のように、この子どもの貧困率が、政府による再分配後の方が悪化することも述べている。

  社会保障の議論の中で、「貧困世帯」という視点が抜けたときに、最も被害を被るのが、子どものある貧困世帯であろう。なぜなら、子どものいる世帯はおおむね現役世代であり、社会保険料や税といった「負担」が最も大きい世代だからである。このことは、以下の国際比較により、明らかである。
 図3-4は、先進諸国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを、「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかもしれない。再分配前所得における貧困率と再分配後の貧困率の差が、政府による「貧困削減」の効果を表す。
 これをみると、一八か国中、日本は唯一、再分配後 所得の貧困率のほうが、再分配前所得の貧困率より高いことがわかる。つまり、社会保障制度や税制度によって、日本の子どもの貧困率は悪化しているのだ!
pp.95-96

 日本の社会保障制度や税制度がいかに不公平なものであるかが分かる。

 

 子どもの貧困が極めて深刻な世帯としてあげられているのが、母子世帯である。

  これらの世帯タイプ別の貧困率を見ると、母子世帯の貧困率が突出して高いことがわかる(六六%)。三世代世帯と両親と子どもの核家族世帯は、低い数値(一一%)であり、この二つの世帯タイプと、母子世帯との間に、大きな隔たりがあるのが特徴的である。母子世帯の貧困率は、OECDやほかのデータを用いた推計においても、六〇~七〇%の間で推移しており、親と同居した三世代の母子世帯においても、その貧困率は三〇%台と高い(阿部2005)。
 女性の経済状況が改善し、それが離婚に繋がっているという見方も多いが、母子世帯で育つ子どもの半数以上が貧困状況にあるのである。第4章にてOECDのデータを紹介するが、国際的にみても、日本の母子世帯の貧困率は突出して高く、OECDの二四か国の中ではトルコに次いで上から二番目の高さである。
pp.57

 

 そして、それにもかかわらず、日本の母子世帯の母親の就労率が国際的に見て高いことも述べられている。

  母子世帯に育つ子どもの生活水準が、ほかの子どもの生活水準に比べて低いことは前に述べた。これは、他の先進諸国にても同じ状況であるが、日本の母子世帯の状況は、国際的にみても非常に特異である。その特異性を、一文にまとめるのであれば、「母親の就労率が非常に高いのにもかかわらず、経済状況が厳しく、政府や子どもの父親からの援助も少ない」ということができる。
 まず、就労率をみてみると、一九九〇年代を通じて、八〇%台後半から九〇%台がずっと保たれており(八四%(厚生労働省編2006))、他の国と比較するとその差は明らかである。図4-1と図4-2をご覧頂きたい。これは、OECD諸国のひとり親世帯(どの国においてもほとんどが母子世帯)の就労率と母子世帯の子どもの貧困率を比べてみたものである。これによると、日本のひとり親世帯の就労率は、ルクセンブルク、スペイン、スイスに続く第四位(三〇か国中)と、きわめて高い。しかも、就労率がこれほど高いのに、貧困率は、最悪のトルコとたいして変わらなく、上から二番目である。まさしく、母子世帯は「ワーキング・プア」なのである。
pp.109-110

 日本で子育てをしながら働くことの難しさは叫ばれて久しい。その労働環境のなかで家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くとどうなるか。その結果がこれである。

 

 そして、それがいかに不条理なものであるかを示しているのが次の箇所だ。

  母子世帯における母親の長時間労働は、子どもが親と過ごすことができる時間の減少に直結する。日本と欧米諸国の母子世帯の母親の時間調査(一日に何にどれくらいの時間を費やすかの調査)を国際比較した研究(田宮・四方2008)によると、日本の母子世帯の母親は、平日・週末ともに、仕事時間が長く、育児時間が短いという「仕事に偏った時間配分」の生活を送っているという(仕事時間は日本が平均三一五分、アメリカ二四二分、フランス一九三分、ドイツ一六〇分、イギリス一三五分)。
 育児に手間暇がかかる六歳未満の子どもを育てながら働いている母子世帯に限ってみると、平日の平均の仕事時間は四三一分、育児時間については、なんと四六分しかない。参考までに、同年齢の子どもをもつ共働きの母親の平日の育児時間は平均一二三分である。母子世帯の母親の場合、土日の週末でさえも、仕事時間が平均一六三分もある。さらに、一九八〇年代に比べて、その傾向が強くなっているという。分析を行った田宮雅子神戸学院大准教授・四方理人慶應義塾大学COE研究員の両氏は、「シングル・マザーのワーク・ライフ・バランス」の政策が必要であると述べているが、まったくその通りである。
pp.120-121

 

 それにもかかわらず、こうした状況に対する政府の「改革」はどのようなものか。それは次の箇所で見ることができる。

  母子世帯に対する施策の中で、最も対象者が多いのが児童扶養手当である。
 児童扶養手当は、父親と生計を共にしない一八歳未満の子どもを養育し、所得制限を下回るすべての母子世帯(または養育者)を対象とする現金給付制度である。その給付額は、世帯の所得水準によって異なり、最高月四万一七二〇円(二〇〇八年度、二人目はこれに五〇〇〇円の加算、三人目以降は一人あたり三〇〇〇円の加算となる)から〇円まで段階的に決定されている。二〇〇七年二月現在、約九九万人が児童扶養手当を受給しており、これは、母子世帯の約七割となる。母子世帯の 増加に伴って、児童扶養手当の受給者数は増加しており、一九九九年の六六万人から、約一〇年後の二〇〇八年には九九・九万人に達した。
 こうした中、政府は二〇〇二年に、母子世帯に対する政策の大幅な改革を行った。改革の主目的は、「児童扶養手当の支給を受けた母の自立に向けての責務を明確化」し、「離婚後などの生活の激変を一定期間内で緩和し、自立を促進するという趣旨で施策を組み直す」(厚生労働省「母子家庭等自立支援大綱」)ことである。つまり、児童扶養手当など受給期間が長期で恒常的な性格をもつ所得保障は極力制限し、代わりに、職業訓練などを通して母親自身の労働能力を高めることにより、将来的には政府からの援助を必要としない「自立」生活を目指すというものである。
pp.132-133

 ここでも自助と家族主義が貫かれているのだ。

 

 このように、『こどもの貧困』では、子どもの貧困の広がりとそれに対する冷淡な政府の政策とが描き出されている。さらにこの本は、それ以上に私たちが目を向け、向かい合わなければならない現実も描き出している。それは、日本が、政府の政策の次元だけでなく、人びとの意識の次元でも、子どもの貧困に対して冷淡である、ということである。次に該当箇所を引用する。

子どもの必需品に対する社会的支持の弱さ
 筆者は、二〇〇三年と二〇〇八年に「合意基準アプローチ」を用いて、一般市民が日本の社会において何を必需品と考えるかの調査を行った。〇八年調査では、特に子どもに特化して「現代の日本の社会においてすべての子どもに与えられるべきものにはどのようなものがあると思いますか」を、二〇代から八〇代までの一般市民一八〇〇人に問うた。調査は、インターネットを通じて行われており、一般人口に比べて若い層が多い、所得が若干高い、などのサンプルの偏りはあるものの、回答傾向に大きなひずみはないと判断される。
 調査では、「一二歳の子どもが普通の生活をするために、〇〇は必要だと思いますか」と問いかけ、回答には三つの選択肢を用意し、「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべきである」「与えられたほうが望ましいが、家の事情(金銭的など)で与えられなくてもしかたがない」「与えられなくてもよい」「わからない」の一つを選ぶようにした。調査項目は、「朝ご飯」「少なくとも一足のお古でない靴」「(希望すれば)高校・専門学校までの教育」など、子どもに関する項目の二六項目にわたる。その結果を表6-1に示す。
 驚いたことに、子どもの必需品に関する人々の支持は筆者が想定したよりもはるかに低かった。二六項目のうち、一般市民の過半数が「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべきである」と支持するのは、「朝ご飯(九一・八%)」 「医者に行く(健診も含む)(八六・八%)」「歯医者に行く(歯科検診も含む)(八六・一%)」「遠足や修学旅行などの学校行事への参加(八一・一%)」「学校での給食(七五・三%)」「手作りの夕食(七二・八%)」「(希望すれば)高校・専門学校までの教育(六一・五%)」「絵本や子ども用の本(五一・二%)」の八項目だけであった。「おもちゃ」や「誕生日のお祝い」など、情操的な項目や、「お古でない洋服」など、子ども自身の生活の質を高めるものについては、ほとんどの人が「与えられたほうが望ましいが、家の事情(金銭的など)で与えられなくてもしかたがない」か「与えられなくてもよい」と考えているのである。
 文化の違いがあるものの、近似した項目について、他の先進諸国の調査と比べると、日本の一般市民の子どもの必需品への支持率は大幅に低い。たとえば、「おもちゃ(人形、ぬいぐるみなど)」は、イギリスの調査(一九九九年)では、八四%の一般市民が必要であると答えているが、日本では、「周囲のほとんどの子が持つ」というフレーズがついていながらも、「スポーツ用品(サッカーボール、グローブなど)やおもちゃ(人形ロック、パズルなど)」が必要であると答えたのは、一二・四%しかいない。同じく「自転車(お古も含む)」は、イギリスでは五五%、日本では二〇・九%であった(小学生以上)。「新しく、足にあった靴」は、イギリスでは九四%とほとんどの市民が必要であるとしているが、日本では「少なくとも一足のお古ではない靴」は四〇・二%である。「お古でない洋服」は、イギリスでは七〇%、日本では「少なくとも一組の新しい洋服(お古でない)」は三三・七%であった。一時は教育熱心であると言われた日本人のことだから、教育関連については支持率が高いのだろうと期待したが、それもイギリスに劣っている。「自分の本」はイギリスでは八九%であるが、日本(「絵本や子ども用の本」)では五一・一%である。
 これはイギリスだけが特に子どもの生活について意識が高いということではない。同様の調査をしたオーストラリアとの比較においても、日本は低い傾向が見られる。驚いたことに、日本では「国民皆保険」が達成され、すべての子どもが歯科治療や健診を受けられるはずであるが、「歯医者に行くこと(健診を含む)」への支持は八六・一%である。対して、オーストラリアでは九四・七%の人が「すべての子どもが歯科検診を受けられるべき」と考えている。オーストラリアでは、公的医療保険では、歯科健診はカバーされないのにもかかわらず、である。
pp.184-188

 日本の政府の冷淡な政策は、私たちの冷淡な意識に根差している。私たちはこの現実と向かい合わなければならないのだ。

 

 さて、家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くことを党是とする自民党が、なぜ高い「支持」を得続けるのか。私たちはなぜ、「子どもの貧困」に冷淡なのか。その答えとして、私は、私たちが、他者を蝕む不公平な現実を、見なくてよいことにして、意識の外に追いやってしまおうとするからだと考える。彼らは私たちとは生きる世界が違う。私たちとは違う世界で、彼らは自らそのように生きている。自己責任である。『子どもの貧困』もあとがきで、次のように私たちの社会を告発する。

 一九九八年二月、新宿駅西口の段ボール村が消滅した。つい数週間前まで、ここは寒さと危険から逃れてきた二〇〇人以上ものホームレスの人々が段ボール・ハウスで生活する「村」だった。新都心のど真ん中、都庁のお膝元にできたこの「村」は、バブル崩壊後の日本において「貧困」の存在を市民の目の前につきつけるものだった。行政による何度もの「強制撤去」の危機にも屈せず、最後の生きる場所を守ろうとする人々が必死の「闘争」を繰り広げていた。しかし、火災という不運と「自主撤廃」 というぎりぎりの選択肢に迫られて、ある日、村は忽然と消え去り、そこはフェンスで囲まれた無機質な空間にかわっていた。
 その不自然な空間を、通行人は何事もなかったかのように、振り向きもせずに通り過ぎていた。ここで多くの人が生活していたという事実は痕跡すら残されていなかった。こうして社会の底辺ながらも精一杯生きていた彼らの「生」は忘れられていった。
 「貧困」を「醜いもの」として見えないところに追いやり、「自己責任である」という説明で自らを納得させて意識の外にさえ排除してしまう社会。私は、そのフェンスの前に文字通り釘付けになり、動くことができなかった。私の貧困研究の発端は、ここにあるといってもよい。日本の貧困の現状について、多くの人が納得できるデータを作りたい。それが、私の研究テーマである。
 それから一〇年の時が流れ、このような本を出版させていただくことになった。その間、「格差社会」という言葉が当たり前のように使われるようになり、二〇〇八年に入ってからは「貧困」「ワーキング・プア」などという言葉もちらほら見かけるようになった。このことは、「貧困」が社会問題として認知されつつあるということを示しているのかもしれない。一方で、それだけ「貧困問題」が深刻になってきたということの表れでもあろう。しかし、「格差論争」がすでに下火になってきたことからも示唆されるように、「貧困論争」も実質的な政策の変換を伴わずに、一時的なブームで終わってしまう可能性もある。「格差」や「貧困」を、「上流」「下流」、「勝ち組」「負け組」といったラベル付けに象徴されるような、一種の「ゲーム」的な関心で語っているだけでは、「貧困」も「格差」も、新宿西口のホームレスの人々と同様に、いつのまにか「見えなく」なり、「語られなく」なるであろう。それは、「貧困」や「格差」が解消したからではなく、ただ単に、社会がそれを見ることにあきてしまい、見ることをやめたからである。
pp.245-246 

 

 このようにして私たちが別の世界として切り離し、見ることをやめた世界を、共に生きる世界として結び付け、見ようとする。勝部さんが取り組んでいるような共助の取り組みの場こそ、そうした態度が育まれる場となるのではないかと感じる。

マクロ経済スライドの廃止ではなく、1階部分の国庫負担による上積みを

 本日、この『鍋パーティーのブログ』にブログ主催者であるid:kojitakenさん自身が、新ブログになってからは実質初めての記事を投稿されるとともに、読者にも記事の執筆を呼びかけられた。それを受けて、私も、再分配の中でも年金について、(年金は本来は再分配政策とは異なる領域の政策であるのだろうが、)拙いながらも私見を述べたいと思う。

 

 ちょうど今日のことだが、朝日が次の世論調査を報じた。

digital.asahi.com

安倍晋三首相に一番力を入れてほしい政策は?」という質問に対する回答が、「年金などの社会保障」38%、「教育・子育て」23%、「景気・雇用」17%、「外交・安全保障」14%、「憲法改正」3%となったというものである。政権が何をアピールしようとしても、何を声高に主張しても、依然として社会保障に対する関心がそれらよりも高いということが分かる。

 

 では、関心の高い「年金などの社会保障」について、今回の参院選で各党はどんなことを訴えたのか。それをNHKによる「NHK選挙WEB」の「選挙データベース」で簡潔にみることができた。ただし、残念ながら、台風の目になった「れ新」については、選挙前に政党要件を満たしている7つの政党が対象ということで、ここではみることができなかった。


www.nhk.or.jp

年金について目を引くところは、多くの党が低年金者への支援を掲げていること、共産と社民が「マクロ経済スライド」の廃止やそれによる「年金の抑制の中止」を掲げていること、維新が「積み立て方式への移行」を掲げていることなどである。

 

 さて、私がここで主張したいことの1つは、共産や社民の求めている「マクロ経済スライドのの廃止」ないし「マクロ経済スライドによる年金の抑制の中止」は、いわゆる「年金の2階部分」については、再分配の観点から望ましくない、ということである。なぜなら、久しく叫ばれているように、制度設計の失敗から、公的年金の積立金の枯渇が必至であるからである。積立金が枯渇する中で現制度での給付水準の維持を求めれば、当然、保険料か国庫負担のいずれか、または、両方の引き上げが必要になる。ここで、「2階部分」、つまり公務員共済組合や厚生年金などの老齢年金給付は、現役時代の個人間の所得格差を退職後も保障するという性格をもつ、ということを考えなければならない。現役時代に多くの保険料を納めた者がそれに応じた年金給付を受けるとは、そういうことである。積立金が枯渇するなかで保険料や国庫負担を増額すれば、それはこの所得格差の保障のために、現役世代により多くの保険料を納めさせたり、広く国民にさらに重い税負担を強いるということになる。それは逆再分配的な政策であるといえる。そして、本来、倫理的にも感情的にも受け入れられる政策ではないはずである。

 

 しかし、マクロ経済スライドの廃止を認めず、積立金の減少に応じて給付を減額していくことにすれば、将来の生活不安が厳しい実態をともなうものとして広がることになる。そこで、私が主張したいことのもう1つが、1階部分の国庫負担による上積みを、ということになる。それは、中間層の人たちの2階部分の給付の減少を、相殺するに十分な額であることが望ましいだろう。1階部分が広く国民全体を覆うものだとすれば*1、2階部分とは違い、そこに広く国民に税負担を求めることに問題は生じない。さらには、税制を累進的なものに改革することにより、再分配を強力に推し進めることができる。再分配を求める立場の人たちこそ、このような制度改革を求めていくべきではないだろうか。

 

 このようなことについては、おそらく専門家や研究者も少なくなく、著書や論文も多く出されているのではないかと思います。にも拘わらず、それらを読んだこともない私がこうして拙い主張をするのは、これをこのような議論の叩き台にしていただいたり、そうした著書やブログ記事などを紹介していただくことで、よりよい認識が広まっていくことに僅かでも貢献できればという思いからです。ご意見、ご助言等いただければ、大変うれしく思います。ぜひ、よろしくお願いします。

*1:ここで、決して少なくない年金未納者についてどうするかという問題が課題として残されるということはあるのだが。

経済の縮小期においては、経済の拡大期よりもずっと「強い再分配」が必要ではないか

 本共通ブログの管理人、古寺多見(kojitaken)です。

 この共通ブログの前身は、最初FC2に立ち上げました。2010年11月のことです。しかし折悪しく2011年3月に東日本大震災と東電原発事故が起き、政治ブログの世界も、また私自身も、震災そのものよりも原発問題に関心が偏ってしまって、本来このブログの立ち上げに注力すべき時期にそれが十分できませんでした。

 リベラル・左派全体を振り返っても、2011年〜2013年頃に論点が原発問題に偏りすぎた隙を、2012年12月に発足した第2次安倍内閣に突かれた恰好でした。安倍政権の経済政策は、私にいわせれば評価できるのはその大胆な金融緩和の部分だけであって、この共通ブログのテーマである「富の再分配」については全く不十分だと思われるものなのですが、リベラル・左派内でも、「なんとかノミクスは本来リベラル政権がとるべきリベラルな経済政策である」という謬論がまかり通る時期が長く続きました。もっともこれには、特に旧民主・民進支持層などの間に、新自由主義的な均衡財政志向などの刷り込みが根強かったせいもあります(この傾向は今も続いています)。

 しかし、安倍政権下においても、安倍政権が再分配に全くの不熱心で、財政支出アメリカ・ロシアなど安倍晋三が気に入った国や、安倍の「お友達」などへの傾斜配分がなされた結果、日本国内の格差はますます拡大し、「新しい階級社会」化が進みました。

 先日(2019年7月21日投開票)の参議院選挙で、山本太郎が率いる、元号名を冠した新政党(以下「山本党」と略称)がいきなり比例区で2議席を獲得したのは、自民党はもちろん、旧来の「中道」野党である旧民主・民進系の立憲民主党や国民民主党はもちろん、これら中道野党と「共闘」を行う共産党からさえも「疎外」されたと感じた人々が、山本党に熱い期待を託したためであることはあまりにも明らかです。

 各種メディアの調査によると、たとえば立憲民主党の支持層は60代以上を中心とした高齢者層に偏っていて若年層ほど支持率が低い一方、山本党に投票した有権者は40代以下が多かったとのことです。つまり、いわゆる「就職氷河期」の世代とそれより若い世代からの支持を、立憲民主党(や国民民主党)は得られていないということです。これらの旧民主・民進系政党は、急激な格差の拡大と新・階級社会化への対応が立ち遅れているといえましょう。共産党は本来、新しい階級世界におけるアンダークラス(by 橋本健二)のニーズに応え得る政党のはずですが、「野党共闘」の過程で旧民主・民進系(小沢一郎一派を含む)に引っ張られるばかりで、旧民主・民進系政党の経済政策を「左に寄せる」ことができなかったばかりか、共産党自らも、これは経済政策よりも専ら政治思想的な面においてですが、ずいぶん右傾化した印象があります。それにもかかわらずこの国の社会にずっとあった伝統的な共産党に対する忌避感はまだ残っています。今回の参院選では、これらの要因が相俟って人々に山本党への投票へと向かわせたと考えられます。

 このエントリでは、その山本党の「ポピュリズム政党」的な性格については何も論じません。この記事の論点は以下に述べる通りです。

 それは、経済の拡大期において機能した程度の再分配政策では、経済の縮小期における再分配政策としては全く不十分であり、経済の縮小期においては、経済の拡大期におけるよりもずっと強い、ドラスティックな再分配政策が必要だということです。

 私が念頭に置いているのは、ごく単純なパイの分配のモデルです。パイが急速に大きくなっている段階では、強欲な金持ちが自分の取り分を多く取っても、それよりもパイの取り分が大きくなります。金持ちがパイを取り過ぎてもメタボになって早死にするだけですから当然の話で、その結果富の分配(再分配ではない)は自然に進むのです。その時期には、強い再分配政策は必ずしも必要ありません。

 しかし、パイが小さくなる時期には、金持ちは自分の取り分だけは守ろうとしますし、実際彼らには政権の中枢に与える影響力も十分ありますから、強引に自分の取り分を減らさずに守ります。その結果、金持ちが取ってしまった分を除くパイの減り方の度合いは、金持ちが取る前よりも大きくなり、格差の拡大と階級社会化が急速に進むというモデルです。後者の弊害は、「強い再分配」によって強制的に矯正されなければならないと私は考えます。

 日本も本格的な人口減の時代に入りました。この時代においては、これまでよりもずっと「強い再分配政策」が必要になります。そして、「強い再分配政策」が「強い経済」に直結する時代であるともいえます。アンダークラスの人たちが自助に頼る必要が減ってより多く消費できるようになれば、それだけで日本経済がその潜在能力を有する分だけは拡大することは明らかでしょう。

 つまり、これからの時代こそ「富の再分配」が大きなテーマになる時代なのであって、議会制民主主義がそれから取り残されて、時代遅れの新自由主義的な政策をいつまでも続けていられる余裕など、もはや全くありません。

 「ポピュリズムの脅威」ばかりを声高に叫びたがる人たちの中には、以上のような観点が欠けている人たちが少なからずいるのではないか。そんな彼らたち自身が議会制民主主義の首を絞めることになりはしないか。

 そう強く危惧するため、閑古鳥が啼いているこの共通ブログに久しぶりに記事を公開する次第です。

再分配の重視を求める人こそ共助を重視しよう~~『(みをつくし語りつくし)勝部麗子さん』を中心に~~<上>

 少し古い話だが、2016年の9月から11月にかけて、朝日新聞DIGITALが、『(みをつくり語りつくし)勝部麗子さん』というインタビュー記事を連載した。


 

勝部麗子さんとは、大阪府豊中市のコミュニティーソーシャルワーカーとして活躍し、NHKドラマ『サイレント・プア』の主人公のモデルにもなったとされる人である。この連載を読んで私が感じたことの一つが、再分配の重視を求める人こそ共助を重視すべきだ、ということだ。なぜなら、共助の場こそが、不条理にはびこる自己責任論や家族主義が打ち破られ、公助を求める態度が育まれる、恰好の場になると感じられたからだ。以下、そのことを論じていきたい。なお、この連載記事は有料会員限定記事になっており、どの記事も会員登録をしなければ、途中までしか読むことができない。各記事の続きについては、次の拙ブログの転載記事中の要約を参照いただきたい。


 

また、本記事の執筆中に、NHKのホームページでも勝部さんの連載がされていることを知り、こちらについても追加して本記事に取り上げることにした。



 この連載では、勝部さんの働きかけを軸とした、共助による支援や救済が多く語られている。それらの主たる対象者は、公助による支援や救済では掬い上げることができない人たちである。勝部さんは、彼らのことを、制度のはざまで助けてと声をあげられずに困窮している人たち、と呼んでいる。*1具体的には、ごみ屋敷の住民*2や引きこもりの問題を抱える家族*3などがそうである。また、75歳以上のアンケートで、「1カ月間、だれともしゃべっていない」と回答した人が15%もいたこと*4や、80代の親と独身の50代の子が同居する世帯が様々な問題を抱えながら社会から孤立して暮らしている「8050問題」が大きな問題となっていること*5などにも触れられている。NHKの連載では、勝部さんは、子ども食堂を通して、子どもの貧困の問題を抱える家族の支援にも取り組んでいる*6。ホームレスの人たちの支援にも取り組んでいる*7

 

 これらの人たちの抱える問題の特質や、勝部さんを軸とした共助による支援や救済の手法を見てもらうために、少し長くなるが、ここで、ごみ屋敷の回(第6回)のすべてを引用したい。

 

 

■コミュニティーソーシャルワーカー
■ごみ屋敷 孤立の象徴
 2004年、コミュニティーソーシャルワーカーになって取り組んだことの一つが「ごみ屋敷」の問題です。
 そのころ、気になっていた70代半ばくらいのおばあさんがいたんですね。私もときどき行くハンバーガーショップでずっと夜遅くまで1人で座っていて。なんかさみしそうな人やなって。
 ある日、ケアマネジャーから「介護保険の手続きのために何度訪問しても会えない人がいる」と相談があって、団地の4階にある自宅を一緒に訪ねました。
 ドアを10センチくらい開けて、顔を見せたのがそのおばあさんやったんです。「きょうは忙しいから」ってドアを閉めはったんですけど、その瞬間、ものすごいごみの臭いがしたんですね。そうか、こういう暮らししてはったんやと思いました。
 放っておけなくて、何度も通うんですけど「恥ずかしいから」と家に入れてくれません。3カ月くらいたって、やっと入れてもらったら、部屋中に胸の高さまでごみが積まれていて。その中でいろいろ話しました。
 「ハンバーガーショップでお見かけしますね」と言ったら「あそこにいたらさみしくないの。みんなの声がするから」とおっしゃって。もとはOLで、ずっと独身で天涯孤独なこと、足腰が弱って1階までごみを持って行けなくなってたまってしまったこともうかがいました。
 それから何度も「ごみを捨てる手伝いをさせてもらえませんか」って持ちかけて、「そこまで言うんやったらお願いするわ」となって、ボランティアの皆さんとごみ出しを始めました。すると、ごみの山の下から10年前の新聞とかが出てくるんです。
 その時に思ったんですね。10年間も訪ねてくる人がひとりもいなかったんや。ごみ屋敷は、社会的孤立の象徴なんやって。
■片付けて終わりでない
「近所のごみ屋敷をどうにかしてほしい」。ごみ屋敷を1件解決すると、私たちコミュニティーソーシャルワーカーのもとには、そんな相談が次々と寄せられるようになりました。
 ほとんどが近隣の住民からです。「悪臭がひどくてかなわん」「家の前までごみがあふれて美観を損なう」「ゴキブリが増えて不衛生や」といった内容で、「地域に困った人がいる」という訴えです。「どこか施設に行ってくれたらええのに」っていう方もいて。こうなると排除の論理ですよね。
 でも、何件もごみ屋敷の片付けにうかがって住人と話すうちに思うようになったのは、周りから「困った人」と言われている人は、本人が「困っている人」なんやということでした。

 

続きは会員登録をしなければ読めないため、拙ブログより要約を引用する。

 


 

●老いた親の介護とか、肉親を亡くした喪失感とか、病気とか、誰にだって起きることでつまずいて、誰も助けてくれる人がいないケースがほとんどだった
●困っていることを聞いて、病院に連れて行ったり、生活保護につないだりするが、根っこの問題を解決しなければ、またごみをためてしまう
●だからヘルパーや話し相手のボランティアに訪問をお願いするが、地域の住民がその人を見守り、支えてくれるのが一番だ
●ごみ屋敷を片付けると言っても、まずは門前払い、話ができても断られる、と、簡単ではないので、コミュニティソーシャルワーカーは何度も何度も訪問する
●その様子を見て、近所の人が集まってくることがよくある
●「どうにかしてほしい」「施設にでも入ってくれたらええ」と排除の論理の話が大半だが、どこにも事情を知っている人がいて、それを話し始める
●事情を知ることで、排除の側にいた人にやさしさが生まれるという現場に何度も立ち会った
●それでも排除の側に立つ人はいるので、ごみ屋敷の本人を守るような「盾になる住民」を見つけるようにしている
●同じ地域の住民であることが大事である
●ごみ屋敷の片付けは、必ず住民ボランティアや小学校区の福祉委員、民生委員の人たちと一緒にする
●十数人で片付けを始めると、近所の人たちが表に出てきて、同じ地域に住む人たちが懸命に片付けている姿を目にすることになる
●片付いていく様子を見ることで、排除の論理を口にしていた人が協力の言葉を口にするようになり、排除から包摂へと地域の雰囲気が変わる
●住民がごみ屋敷の片付けを手伝う「豊中方式」は、小さな成功体験の積み重ねによって、地域のことを地域で解決する住民力が育っていることによってできていると思う

 

  これらの問題は、なぜ公助だけでは掬い上げることができないのか。その理由を感じていただけたのではないだろうか。まず、本人が声をあげないので、公的機関がその問題の解決に乗り出すことが難しい。誰かが問題を見つけ出し、解決のための適切な機関につながなければならないのだ。次に、問題が解決できたかに見えても、彼らの抱える、その背景となる困難が解決していないために、結局、問題が再発してしまうケースがとても多い。そして、その背景となる困難とは、多くは、彼らが本当は社会的な支えを必要としているのに、孤立している、ということである。制度のはざまで助けてと声をあげられずに困窮している、というと、公助を求める立場からは、では、制度をつくればよいではないか、という声があがるかもしれない。しかし、社会的孤立の問題を解決するには、地域住民の支援が不可欠なのである。地域の共助が不可欠なのである。

 

 ここで、彼らのための疑似コミュニティを公的政策によって作り出す、という方法も考えられるだろう。実際、勝部さんも、引きこもりの人が少しでも外に出やすいようにと、彼らが働ける「豊中びーのびーの」という場を設けたり*8、会社を定年退職した男性たちが農業と地域福祉を学べる「豊中あぐり塾」という塾を開いたり*9することで、彼らの社会的孤立の問題を解消しようとしている。最近では「出会いの場」としての子ども食堂を広げることにも力を入れている*10。これらを、共助ではなく公助の枠組みでもっと行えばよいのではないか。他にも、老人ホームや世代を超えたグループホームを、公費で開設したり、助成したり、利用できるようにしたりすればよいのではないか。そのように考えることもできるだろう。

 

 こうした考えはもっともで、それなのに、現在、こうした公共政策はあまりにも貧弱である。これは確認しておくべきことであるし、改善を強く求めていくべきことである。しかし、それが改善されたとしても、公助だけでは、やはり不十分である。

 

 まず、公助で彼らを支援する場が用意されたとしても、既に述べたように、誰かが彼らを見つけ出してそこに導かなければ、彼らがそこにたどり着くことはできない。それも公的機関が行えばよいという考え方もあるだろうが、それには限界があるし、今度は監視社会化が危惧されることにもなる。

 

 次に、彼らの社会的孤立の問題を、公助だけで解決しようとしても、彼らと社会とのつながりは、職業専門家とのつながり以上には広がらない。公的機関の人間が彼らと関わったり、彼らが誰かに支援を求めるための費用を公費で負担したりすることはできるが、そうしてつながることができるのは、職業として彼らの支援を行う人たちに限られるからだ。もちろん、それでも誰ともつながらないよりは、はるかによい。また、それだけでなく、職業専門家の支援を受けることで、彼らが自ら社会とつながることのできる力を身につけることも期待できる。しかし、だからと言って、その力が弱ければ、相手が手を差し伸べてくれなければ、彼らは他者とつながっていくことはできない。つまり、相手の共助なしにはつながっていくことはできない。さらには、彼らとつながればよいのは職業専門家たちだけであって、「一般の」人たちはつながらなくてもよい、という共通理解が広がるとすれば、彼らは「一般の」社会から切り離されてしまう。公助だけで行えばよいとされる範囲がば広がれば広がるほど、彼らと「一般の」社会との断絶は深くなる。そうならないためには、公助だけでなく、共助も必要である、という共通理解の広がりが不可欠なのである。

 

 上に引用した記事の要約部分にあるように、彼らの社会的孤立の問題を解決するために、勝部さんは、地域に彼らの支援者を作り出すという手法を取る。そのために、地域の委嘱委員やボランティア組織を巻き込んでいく。それだけでなく、地域の人が彼らに関心を向け、彼らの事情を知る機会を仕組んでいく。そして、彼らの事情を知った人たちの間にやさしさが生まれ、支援の輪が広がっていく。私が共助を重視すべきだと主張するのは、こうした過程に、現在、不条理にはびこっている自己責任論や家族主義が打ち破られ、公助を求める態度が育まれる力を期待したいからである。こうした過程は、NHKの連載でもより詳しく取り上げられている。当該部分を引用する。

 

 

 

片づけを通じて、もう一つ大きな変化が起きました。ご本人と近隣の方々との関係が、元に戻っていったのです。一般的に、ゴミを溜め込んでいる人は、地域にとって“困った人”と見えるわけです。そして必ず「地域にこういう人がいると困る」と、排除しようとする人たちが出てきます。そうした人たちとご本人との間で、私たちは“盾になってくれる人”を見つけていきました。今回の女性のケースでは、“盾になってくれる方”は、ご近所の方でした。とてもご本人を心配されているご近所の方がいたのです。その方が「あの家の主は困った人だ」「出て行ってほしい」と思っている人たちに、「片づけが進み始めたよ」「もうちょっと待ってあげよう」と呼び掛け、ご本人に対しては「大丈夫ですよ」と声をかけてくれました。やがて、優しく声掛けをしてくれる人が増えていき、ご本人も「大丈夫かな」と感じてくれるようになり、いざこざは無くなっていきました。盾になってくれる方がいたからできたのであり、私たちの力だけでは不可能だったと思っています。

 

私たちはこれまで、400人を超える方々のゴミの片づけをしてきました。その誰もが、片づけができない様々な事情を抱えていました。一概にゴミ屋敷という捉え方ではなく、ひとりひとりが抱える課題をご本人の立場になって考えサポートしていくことが大切です。これまで述べてきたように、ゴミ屋敷の問題というのは、何か他の原因があって起きているのであって、その原因を何とかしなければ解決にはつながりません。例えば、リストラから自暴自棄な生活状態に陥り片づけをする気持ちすら起きないというような人や、家族を失ったショックから立ち直れない人、うつ状態やいわゆる発達障害だったり、認知症、知的障害といった人たちもいる訳です。ゴミの片づけが目的のすべてなのではなく、その人の生活課題をしっかりとサポートする。その上で片づけにもアプローチしていくことが大切だと思います。

 

近所の人たちが「この人ってこういう課題を抱えて、苦しい思いをしていたんだ」と理解し、つながっていく。外から見たらゴミ屋敷にしか見えないけれど、実際には大切なものが中にあったり、色々な事情も背景にはあるのだということを、片づけを通じて地域のリーダーが理解し、周りの人が冷たい言葉をかけた時には「そういうことではないのでは」と受け止めていく。先ほど「盾の役割」と言いましたが、いわゆる“包摂”ですね。排除ではなくて包み込む役割を果たしていく。そのことで、まち全体が優しくなっていく。排除ではなく、色々な課題を抱えている人のことを、地域の人たちがわかろうとするまちづくり。私たちがやってきていることは、そんなまちづくりにもつながる取り組みだと思っています。

 

外から見ているだけだと、本当の事はなかなかわからないものです。わからないから、表面的なところだけで、難儀な人、大変な人、困った人というふうに見てしまう。けれども、実際にはそれぞれ色々な事情があるわけで、それを知ることが大切なのです。そういうことなのかと知るところから、優しさが生まれてくる。私は、地域で出会ったあるボランティアの方から教えてもらいました。「勝部さん、その人の本当のこと知らんで理解せぇって言われてもわからんやろ」と。知ることによって優しさが生まれ、その人のことを理解できるようになる。自分も同じ状況に立たされたら、同じようになるかもしれないなと思えるようになる。それが共感するということだと思います。本人の生き方とか、何を大事にして生きていきたいのかといったことを、地域の人たちが肌で感じる。そこから出発していくことで、その後の支援の在り方や地域のひとりひとりの方の行動も、大きく変わっていくのではないかと思っています。

 

「貧困問題を政治利用するな」

藤田孝典と言えば、「反貧困」の活動では湯浅誠や稲葉剛・今野晴貴らと並んで名前が比較的知られた方であり、貧困問題に関してもいくつか著作をものしている。

その藤田が12月17日に12月17日に以下の様に立て続けの呟きをしているのだ。

 藤田の「左翼・リベラル批判」をめぐる反響

当然、この一連の呟きに対してはこと貧困問題に熱心に取り組んできた左翼・リベラルへの批判ということもあってか、かなり批判を招いた。例えば稲葉剛は藤田の呟きに批判的に反応している。

稲葉剛公式サイト » 「誰が貧困を拡大させているのか」という議論を恐れてはならない。

 貧困問題に関わる団体や個人が「幅広い支持」を求めるあまり、今の政治の動きに対して「まずい」と思っていても沈黙をしてしまう、という傾向が生まれてはいないでしょうか。

カジノ法案や年金カット法案、生活保護基準の引き下げといった「政治的」な課題に対して意見を述べると、自分たちの活動が色メガネで見られるようになり、支持が広がらなくなってしまうのではないか、と恐れてしまう。「左派と見られるのが怖い」症候群とでも言うべき現象が広がりつつあるように、私には思えます。

政治が良くも悪くも貧困に対して現状維持の立場を取っているのであれば、国政の課題にはタッチせず、目の前のことに集中する、という姿勢も有効かもしれません。

しかし残念ながら、今の政治が貧困を拡大させ続けているのは明白です。一人ひとりの生活困窮者を支えていく現場の努力を踏みにじるがごとき政治の動きに対して、内心、憤りを感じている関係者は多いのではないかと思います。

そうであれば、貧困の現場を知っている者として、社会に発信をしていくべきではないでしょうか。団体での発信は難しい場合もあるかもしれませんが、個々人がSNSなどで意見を述べるのは自由なはずです。

貧困問題を本気で解決したいのであれば、「誰が貧困を拡大させているのか」という議論を避けて通ることはできないのです。

現場レベルで貧困対策を少しでも進めることと、将来にわたる貧困の拡大を防ぐために政治に物を申していくことは決して矛盾していません。

その他、数々の批判が藤田に対し投げかけられた。

  一方で左翼・リベラルと目されている側からも、藤田の指摘に対し同意する意見も見受けられている。

 貧困問題にとっての「政治」とは?

この藤田の呟きをめぐる賛否両論や反響は、濱口圭一郎の以下のエントリの中での指摘が示唆的ではないだろうか。

eulabourlaw.cocolog-nifty.com

藤田さんが想定しているのは、(稲葉さんがやってきたような)貧困を問題にする政治ではなく、ややカリカチュアライズして言えば、貧困なんて問題は本音ではどうでも良いけど、ナショナリズムとか排外主義とかといった大文字のマクロ政治における左右の対立図式における陣地取り合戦の手駒として貧困問題「も」使おうという「左翼やリベラル」(略して「リベサヨ」ですか)発想に対する違和感なのでしょうし、稲葉さんがその意義を説いているのは、まさにその貧困問題を解決する回路としての政治に積極的に関わるべきということなので、実のところはあんまりずれていないように思われるのです。

 濱口の指摘や稲葉の批判を見る通り、貧困問題がこと賃労働や福祉など社会政策の中でも重要なマターであるのは今更言うまでもなく、仮にも時の政権がその政策面で不充分だったら政治家へ陳情・請願したりデモや署名で数量的に見える形で問題を顕在化させたりする「政治的」なことをしなければならないのは当然のことだろう。

だが、その「政治的」なことをする場合には当然「左翼・リベラル」のみならず政権与党の側に対しても働きかけなければならないというジレンマが存在する。政策実現を第一とするなら、政権批判側に働きかけて積極的に批判の声を挙げてもらうよりは、寧ろ時の政権の政策担当者に今どれだけ深刻な状況なのか・何故この様な政策が必要なのかということを説明しチャンと社会政策として形にしてもらう方が──こと政権与党の支持が高く野党へのそれが弱い場合には──早道であることは一面の真実だったりする。

 それは、「左翼・リベラル」の批判や(生活相談などの)日常活動が無力だということを必ずしも意味しない。逆に「左翼・リベラル」など政権批判側の批判の声が存在することで、政権側が政策を実施する意思決定を行うインセンティブになる面すらある。しかしながら例えば貧困問題や社会政策に直接的に関係ない様な「ナショナリズムとか排外主義とかいった大文字のマクロ政治」の点──もっとも間接的には無関係とも言い消れない──に関してまでワンセットにして貧困問題などの現場に持ち込むのは当事者からすれば逆に「利用されている」格好になってしまい反発すら招いて逆に「左翼・リベラル」への嘲笑ないし嫌悪へと向かうのも致し方無い。況や、其処へ怪しげな科学だのオカルティックなものを持ってきたり

d.hatena.ne.jp

貧困問題に取り組むと口先で言っていながら同じ口で均衡財政だの緊縮だの「経済右派」の主張を繰り返していれば

きまぐれな日々 野田佳彦、朝日新聞、「リベラル」等の救い難い経済政策観

松尾(匡=引用者注)氏は、スペインのポデモスもイギリス労働党のジェレミー・コービンも大胆な金融緩和を主張し、アメリカ民主党のバーニー・サンダース(残念ながらヒラリー・クリントンに負けてしまったけれども)は大規模な財政支出を公約した、それなのに… と書くが、その意味でどうしようもないのは、先の民進党代表選で圧勝した蓮舫が、3人の候補(いずれも民進党内保守派だ)のうちもっとも緊縮財政志向の強い政治家であり、しかもあろうことか幹事長に野田佳彦を選んでしまったことだろう。野田の経済政策は、安倍晋三と比較しても経済軸上の「右」側に位置する。この状態では、2006〜07年にかけて威力を発揮した、安倍政権の新自由主義的経済政策への批判は効果を持たないどころか、ブーメランとなって民進党を直撃する。安倍政権より緊縮志向が圧倒的に強い野田の経済政策では、民進党の票は、いくら「野党共闘」に助けられたところで自民党候補に勝つほどには伸びないだろう。その意味で、野田を幹事長に据えた蓮舫の人事は「敗着」になりかねない大失敗だったと言わざるを得ない。
 加えて、全く好ましくないと私が思うのは、「野党共闘」(これは次の衆院選でも行われるだろう。民進党は他党の助けを借りずに候補を当選させられるだけの力を既に失っているからだ)が進んで以来、民進党を批判しようとすると、「民進党批判をして何になる。安倍晋三(安倍政権)や自民党を助けるだけだ」と言う人間が現れて、批判が封じられてしまう風潮が出始めていることだ。

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

 

 当事者が「利用されている」と感じてしまうのも、それで「左翼・リベラル」が嘲笑ないし反発を受けるのも──日常活動として貧困問題や社会政策に取り組んでいたとしても──当然のことではないか。

いみじくも藤田はこう呟いている。この呟きの意味を改めて考えてみることは──巷間の「左翼・リベラル」への嘲笑が論外だとしても──「左翼・リベラル」のみならず政権批判側全体に突きつけられている課題なのではないだろうか。

 

再分配や貧困・社会政策を文章にするということ・報じること

WelQが医学的に怪しい記事を載せていたというのを切っ掛けに、ここ一ヶ月ばかりネットメディアことに「キュレーションメディア」と称されるものへの批判が激しい。何しろ専門家が吟味して取捨選択するという「キュレーション」本来の意味とは裏腹に、記事を書いているのは専門知識もないド素人・検索エンジンの上位にヒットするがためのマニュアルなるものさえ存在し、結果量産される記事は剽窃・盗用も目立つものばかり・それこそ掲載ページの広告費収入さえあれば何でもありな玉石混交ばかりか所謂まとめサイトアフィブログと変わらぬ屑石の山という次第だ。

とは言いながらこの問題、このブログがテーマとしている再分配、更に進んで貧困や労働・福祉の社会政策全般においても無縁とは言い切れないとこがあるのだ。

目立つ煽情的な物言い

例えば「鍋パーティーのブログ」の前身(?)とも言える「Nabe Party ~ 再分配を重視する市民の会」にしてさえ、「利潤は世界を豊かにするか」といった記事が散見される。これについては以下の以下のエントリで駁しておいた。

nabe-party.hatenablog.com

 更にこのブログでさえ、こういうエントリが上梓されたりされる。

nabe-party.hatenablog.com

 これについても以下のエントリで丁寧に批判しておいた。

nabe-party.hatenablog.com

 しかし、傍目から見てそれこそ耳目を集めやすそうなのは自分が書いた記事よりは、ともすれば自分が批判の俎上に乗せた記事の方ではないだろうか。そう、これらの記事は煽情的にモノを言っているのだ。利潤や報酬が巡り巡って責任の問題に至ると事細かに講釈するよりは利潤は我々を豊かにしない!利潤を追うのは強欲だ!というのがスカッとするし解り易い。保育園落ちた日本死ね!というのが切っ掛けとなって保育をめぐる環境の問題に関心が持たれても、そこに複雑な利害や構図が絡んでも多くの人々を納得させるには時間がかかる。そんなことより敢えて幼稚園など奴隷施設だ!再分配からも逸脱してる!と極論(暴論!?)を持ち出した方が人々の注目を集め易い。況や、SEOだのマネタイズだのに関心が偏っているまとめサイトや「キュレーションメディア」をや、である。

解り易さで削ぎ落とされる問題

 こうした煽情的な物言いや耳目を集め易い解り易さ、それはこのブログのテーマである再分配や貧困や福祉の問題、更には社会政策に至る議論さえも歪めてしまう。それを取り上げているのが『東洋経済ONLINE』で連載されていた鈴木大介「『貧困報道』は問題だらけだ」である。

toyokeizai.net

鈴木の連載はどれも貧困や再分配・社会政策に関してに関して示唆深いものを示してくれているが、中でも自分が関心を関心を持ったのは2回目の「貧困者を安易にコンテンツ化してはならない」だった。

toyokeizai.net

少しばかり引用してみよう(強調部は引用者による)。

まず第一に、多くの「速報性」を求めるテレビメディアや新聞メディアのほとんどは、限られた短い取材期間の中で当事者を見つけ、さらっと取材してそれをコンテンツにしようとしてしまう。だがことに相手が貧困者の場合、そこで起きる弊害は、甚大だ。

さまざまな当事者取材の中でも、貧困者の当事者取材は本当の対象者の像が見えて来るまでに時間がかかるのだ。理由は明らかで、重度の貧困とは複雑な要因が長期間連鎖して陥るものだからで、むしろその要因が複雑でわかり辛いからこそ、彼らは支援の手からすり抜け続けて今も貧困にあるのだと言えるから。単に昨日今日失職したからというものではないからである。

この指摘で自分が想起したのは、数ヶ月前にネットの耳目を集めそれこそ“炎上”してしまった「貧困女子高生」の一件である。

biz-journal.jp

 

togetter.com

この“炎上”、そもそもがNHKの報道子どもの貧困 学生たちみずからが現状訴える」を切っ掛けとして、ネットで“素性の洗い出し”が行われ、挙句当事者の女子高生の個人情報はおろか、趣味のグッズや映画鑑賞・千円のランチなどの“粗探し”が行われ、生活が苦しいのなら「なるべく買い物をせず、倹約に努めほどほどの生活に我慢する」のが当たり前、趣味にも金使うな・千円も食事に使うなぞ贅沢だ・・・・・という具合に「相対的貧困」の現実を無視した節倹論の嵐に。挙句、『Business Journal』で「NHK特集、『貧困の子』がネット上に高額購入品&札束の写真をアップ」(当該記事は削除されているが、2chに転載された過去ログで記事の概要は読める)というのが掲載され、女子高生は心身にダメージを受けた。

とは言いながら、この一件の発端となったNHKの報道は『Business Journal』で報じてた様にそもそもドキュメント番組として報じられたわけではない。7時台のニュースで数分間程度取り上げられたものでしかない。その限られた時間で取り上げられるのはそれこそ限られてしまうであろうし、精々表面的なとこに触れて次のニュース、ってとこだろう。それでもネットで“粗探し”が行われ、「相対的貧困」の現実とはかけ離れた俗耳に入り易い節倹論が大手を振ってしまったのだ。

bigissue-online.jp

仮にこれが数分間のベタニュースでなくて、例えばNHKスペシャルの様に長期間生活の実態を追ったドキュメンタリーだったらどうだったろうか?少なくとも件の女子高生の生活実態に関する“粗探し”に関して多くの点で誹謗中傷の種となることは明白となり、彼女のプライバシーが少し明らかになったとして“炎上”の事態は防げたのではないかとさえ思う。

煽情的で安易な俗論が実態を歪める

無論、NHKにしてみれば取り上げただけ問題意識があったのだと言えばそうなのかも知れない。だが「貧困女子高生」の一件はそうした問題意識を安易に発揮して結果的に実態とはかけ離れた俗論や煽情的な主張・誹謗中傷を誘発してしまうことを示している。加えてネットメディアは有料化によるコンテンツ提供はありながらも、大概は広告収入が柱だ。当然衆目を集め易く解り易い・時には「暴論」とさえいうのまで歓迎されてしまうインセンティブが働き易い。そればかりかネットメディアでないリアルの紙メディアでさえもこういうのが載る始末だ。

president.jp

kazugoto.hatenablog.com

詳細な批判は後藤和智のブログに譲るが、現実に生活保護を受給している人間や担当者に取材をしてこんな「ドキュメント」を「フィクション」として書いたのだろうか?それこそ昨今の「キュレーションメディア」にわんさと出た怪しげな雑文と殆ど変わりが無いレベルのが、いみじくも書店で売られる雑誌にすら載るのがこの日本である。「キュレーションメディア」のお粗末さから始まった本エントリ、結局は煽情的で安易な俗論が罷り通り実態が歪められてしまう(ネットのみならずリアルに至るまで)言論の堕落を指摘することで〆とせざるを得ない。

有害な若者向け選挙キャンペーンはやめてくれ

著者:suterakuso kojitakenさんの『きまぐれな日々』のコメント欄で生まれたコメンターです。

なお、この記事は、拙ブログの記事のコピーです。

 

 参院戦も近づき、18歳に選挙権が与えられて初の国政選挙ということで、若者向けの選挙キャンペーンも熱を帯びてきた。朝日新聞も、その流れにのった記事をいくつかあげている。そのなかで、これはちょっと有害だなという記事をみつけた。なんか若者に投票を呼びかけるキャンペーンで、世代対立をいたずらにあおるものが目立ってきているが、この記事も、タイトルをみて、またかと思わされたし、読み始めて、さらに詭弁まで使ってそれをしてやがると思ったんだけどね…。…いつものことだけど、マスコミの「分かりやすい説明」って、たいてい詭弁だよね。…それはさておき、さらに読みすすめると、これ、朝日18番の悲惨な詭弁による「財政再建ちゅう」キャンペーンじゃねーかって、心底むかついた。性質の悪いステマ。有害。若者のリテラシーをあげる気なし。

 それが、次の記事。

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『18歳が知った「シルバー民主主義」 無関心の怖さ納得』
吉沢龍彦 聞き手・仲村和代 田渕紫織 2016年7月3日05時05分

http://www.asahi.com/articles/ASJ714JGXJ71UPQJ00F.html?iref=comtop_8_07

 18歳、19歳の選挙デビューに向け、いろんな試みをしています。「お嬢様芸人」たかまつななさんの「せんきょの学校」をネット中継し、18歳のシンガー・ソングライター井上苑子さんに今の思いを聞きました。高校生の発案によるフォトコンテストも開催中です。政治のイメージをポジティブなものに変えようという試みです。

■「投票行かないと…」シミュレーションゲーム

 18、19歳の有権者がどれだけ参院選の投票に行くかに注目が集まっています。過去の選挙では若い世代ほど投票率が低い傾向が出ています。ちなみに3年前の参院選では、20代は33%、30代は44%、40代は52%、50代は62%、60代は68%でした。

 若い世代が投票に行かないと、どんな影響があるのか。Voice1819の一環で、テレビ番組などで売り出し中の「お嬢様芸人」たかまつななさん(22)の、笑える政治教育をネタにした「せんきょの学校」を動画配信サービス「ツイキャス」でネット中継しました。生徒役として18歳、19歳を代表して、大学生シンガー・ソングライターましのみさん(19)と、ジャニーズの嵐の大ファンという専門学校生さとえりさん(18)が参加しました。ツイキャスで録画が視聴できます。

 たかまつさんが始めたのは、「逆転投票シミュレーションゲーム」。「50歳以下の選挙権は廃止する」という政策に賛成か反対か、投票で決着させようというゲームです。

 その場にいた記者を含め、18歳高校生、20代会社員、40代主婦、60代会社員、80代高齢者という役割に分かれた5人が投票します。50代以上は自分たちの利益が膨らむであろう「50歳以下の選挙権廃止」に賛成し、50歳未満は反対します。

 人数だけなら、3対2で反対多数です。でも、実際の社会では年代ごとの有権者数が違います。その実勢に合わせて80代には40点、60代には90点、40代には90点、20代には60点、10代には10点を与えます。点数の合計だと、賛成130点、反対160点と、なお反対が優勢です。

 ここで、たかまつさんが尋ねました。「でも、みんなが投票に行くでしょうか」

 「あっ!」「そういうこと?」。生徒からつぶやきが漏れます。

 10代の投票率はまだ分からないので、仮に50%としておきます。それ以外は過去の選挙での実績を当てはめます。20代30%、40代50%、60代70%、80代60%として先ほどの点数にかけ合わせると――。

 賛成87点、反対68点。賛否が逆転し、むちゃくちゃな政策が通ってしまいました。

 「これが実際の世の中で起きていることなんですね」とたかまつさんは解説します。さらに、舞台に立つ時に客層を見て受けそうなネタを選ぶと自分の体験を話します。「政治家も客層、つまり有権者を見て政策を変えて当然ではないでしょうか」と話を締めくくりました。

 少子高齢化にともない、高齢者層の政治への影響が強まることは「シルバー民主主義」と呼ばれます。実際、日本で1人が一生の間に政府に払うお金(税金など)と、政府から受け取るお金(年金など)の収支は、年代ごとに大きな差があると言われます。60歳以上は4千万円のプラス、20歳未満は8千万円以上のマイナスという試算があることを、たかまつさんは紹介しました(小黒一正・法政大学教授の試算)。

 もちろん現実の政治は、世代間でいがみあい、税金を取り合っているだけではありません。お互い力を合わせ、支え合い、よりよい社会を作っていくことが大切です。

 そのためにも、まずは投票に行くことが大切――。これがたかまつさんのメッセージでした。

 「深い……」と授業中につぶやいていたましのみさん。「私だけでなく、まわりを巻き込まないと。みんなで選挙に行こうと呼びかけます」と話しました。

 さとえりさんもこう言います。

 「政治や選挙に関心を持たないと、ほんとコワイんだなって思いました。自分だけがそう思っていても仕方がないので、友だちも誘って投票に行きます」(吉沢龍彦)


≪続きの引用は省略≫


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…あのさぁ。なにが、「深い……」だよ。申し訳程度に、「もちろん現実の政治は、世代間でいがみあい、税金を取り合っているだけではありません。お互い力を合わせ、支え合い、よりよい社会を作っていくことが大切です。」なんて、優等生なこと言っているけどさ。。。その前に、「これが実際の世の中で起きていることなんですね」なんて、断定調で言って、そんなんにはじめて「深い……」なんて言うような「若者」たち誘導しておいて、そんなん言っても、そりゃあんまり意味ないでしょ。とはいえ、そこはまだいいよ。確かに、そうでもして関心を呼び覚ます必要もないとはいえないし、いちおう、申し訳程度のことは言ってるしさ…。

 でも、これに、よりによって、「財政再建ちゅう」くっつけるか?! 元財務官僚、あえてこの言葉を使うけど、御用学者、小黒一正だぜ! 小黒については、これ↓を参照ね。

『まだ家族に例えるのね…』
http://d.hatena.ne.jp/suterakuso/20131224/1387895160

ああ、小黒が世代間格差のことを言っているのは、まだいいんだけどね。ただ、これ、社会保障切り捨てのステマだよね。本当の格差のことじゃないよね。いや、小黒や朝日が、高所得者資産家の負担を求めつつ、社会保障のなかでも元高所得者資産家の社会保障の切り捨てだけを求めるってんなら、そりゃ、すばらしいけどさ。どうせ、こいつらが気にしているのは、自分たちが安定してラグジャリーに生きれるシステムの維持だけでしょ。


 こんな「主権者教育」より、今、若者に一番求められているのは、資産家やマスコミ金融機関大企業エリートの人間なんかの生活がどうなっているのか、いっぽう、例えば、非正規の若者や、福祉関係の職につく若者たちの生活はどうなっているのか、そういう現実をまざまざと直視させること、そして、それが「政治」によってつくられるシステムの上に成り立っているということを知らせること、それこそが絶対に必要だと思うけどね。