鍋パーティーのブログ

再分配の重視を求める「鍋パーティー」の共用ブログです。

再分配の重視を求める人こそ共助を重視しよう~~『(みをつくし語りつくし)勝部麗子さん』を中心に~~<上>

 少し古い話だが、2016年の9月から11月にかけて、朝日新聞DIGITALが、『(みをつくり語りつくし)勝部麗子さん』というインタビュー記事を連載した。


 

勝部麗子さんとは、大阪府豊中市のコミュニティーソーシャルワーカーとして活躍し、NHKドラマ『サイレント・プア』の主人公のモデルにもなったとされる人である。この連載を読んで私が感じたことの一つが、再分配の重視を求める人こそ共助を重視すべきだ、ということだ。なぜなら、共助の場こそが、不条理にはびこる自己責任論や家族主義が打ち破られ、公助を求める態度が育まれる、恰好の場になると感じられたからだ。以下、そのことを論じていきたい。なお、この連載記事は有料会員限定記事になっており、どの記事も会員登録をしなければ、途中までしか読むことができない。各記事の続きについては、次の拙ブログの転載記事中の要約を参照いただきたい。


 

また、本記事の執筆中に、NHKのホームページでも勝部さんの連載がされていることを知り、こちらについても追加して本記事に取り上げることにした。



 この連載では、勝部さんの働きかけを軸とした、共助による支援や救済が多く語られている。それらの主たる対象者は、公助による支援や救済では掬い上げることができない人たちである。勝部さんは、彼らのことを、制度のはざまで助けてと声をあげられずに困窮している人たち、と呼んでいる。*1具体的には、ごみ屋敷の住民*2や引きこもりの問題を抱える家族*3などがそうである。また、75歳以上のアンケートで、「1カ月間、だれともしゃべっていない」と回答した人が15%もいたこと*4や、80代の親と独身の50代の子が同居する世帯が様々な問題を抱えながら社会から孤立して暮らしている「8050問題」が大きな問題となっていること*5などにも触れられている。この連載では語られていないが、勝部さんは、子ども食堂を通して、子どもの貧困の問題を抱える家族の支援にも取り組んでいる*6。ホームレスの人たちの支援にも取り組んでいる*7

 

 これらの人たちの抱える問題の特質や、勝部さんを軸とした共助による支援や救済の手法を見てもらうために、少し長くなるが、ここで、ごみ屋敷の回(第6回)のすべてを引用したい。

 

 

■コミュニティーソーシャルワーカー
■ごみ屋敷 孤立の象徴
 2004年、コミュニティーソーシャルワーカーになって取り組んだことの一つが「ごみ屋敷」の問題です。
 そのころ、気になっていた70代半ばくらいのおばあさんがいたんですね。私もときどき行くハンバーガーショップでずっと夜遅くまで1人で座っていて。なんかさみしそうな人やなって。
 ある日、ケアマネジャーから「介護保険の手続きのために何度訪問しても会えない人がいる」と相談があって、団地の4階にある自宅を一緒に訪ねました。
 ドアを10センチくらい開けて、顔を見せたのがそのおばあさんやったんです。「きょうは忙しいから」ってドアを閉めはったんですけど、その瞬間、ものすごいごみの臭いがしたんですね。そうか、こういう暮らししてはったんやと思いました。
 放っておけなくて、何度も通うんですけど「恥ずかしいから」と家に入れてくれません。3カ月くらいたって、やっと入れてもらったら、部屋中に胸の高さまでごみが積まれていて。その中でいろいろ話しました。
 「ハンバーガーショップでお見かけしますね」と言ったら「あそこにいたらさみしくないの。みんなの声がするから」とおっしゃって。もとはOLで、ずっと独身で天涯孤独なこと、足腰が弱って1階までごみを持って行けなくなってたまってしまったこともうかがいました。
 それから何度も「ごみを捨てる手伝いをさせてもらえませんか」って持ちかけて、「そこまで言うんやったらお願いするわ」となって、ボランティアの皆さんとごみ出しを始めました。すると、ごみの山の下から10年前の新聞とかが出てくるんです。
 その時に思ったんですね。10年間も訪ねてくる人がひとりもいなかったんや。ごみ屋敷は、社会的孤立の象徴なんやって。
■片付けて終わりでない
「近所のごみ屋敷をどうにかしてほしい」。ごみ屋敷を1件解決すると、私たちコミュニティーソーシャルワーカーのもとには、そんな相談が次々と寄せられるようになりました。
 ほとんどが近隣の住民からです。「悪臭がひどくてかなわん」「家の前までごみがあふれて美観を損なう」「ゴキブリが増えて不衛生や」といった内容で、「地域に困った人がいる」という訴えです。「どこか施設に行ってくれたらええのに」っていう方もいて。こうなると排除の論理ですよね。
 でも、何件もごみ屋敷の片付けにうかがって住人と話すうちに思うようになったのは、周りから「困った人」と言われている人は、本人が「困っている人」なんやということでした。

 

続きは会員登録をしなければ読めないため、拙ブログより要約を引用する。

 


 

●老いた親の介護とか、肉親を亡くした喪失感とか、病気とか、誰にだって起きることでつまずいて、誰も助けてくれる人がいないケースがほとんどだった
●困っていることを聞いて、病院に連れて行ったり、生活保護につないだりするが、根っこの問題を解決しなければ、またごみをためてしまう
●だからヘルパーや話し相手のボランティアに訪問をお願いするが、地域の住民がその人を見守り、支えてくれるのが一番だ
●ごみ屋敷を片付けると言っても、まずは門前払い、話ができても断られる、と、簡単ではないので、コミュニティソーシャルワーカーは何度も何度も訪問する
●その様子を見て、近所の人が集まってくることがよくある
●「どうにかしてほしい」「施設にでも入ってくれたらええ」と排除の論理の話が大半だが、どこにも事情を知っている人がいて、それを話し始める
●事情を知ることで、排除の側にいた人にやさしさが生まれるという現場に何度も立ち会った
●それでも排除の側に立つ人はいるので、ごみ屋敷の本人を守るような「盾になる住民」を見つけるようにしている
●同じ地域の住民であることが大事である
●ごみ屋敷の片付けは、必ず住民ボランティアや小学校区の福祉委員、民生委員の人たちと一緒にする
●十数人で片付けを始めると、近所の人たちが表に出てきて、同じ地域に住む人たちが懸命に片付けている姿を目にすることになる
●片付いていく様子を見ることで、排除の論理を口にしていた人が協力の言葉を口にするようになり、排除から包摂へと地域の雰囲気が変わる
●住民がごみ屋敷の片付けを手伝う「豊中方式」は、小さな成功体験の積み重ねによって、地域のことを地域で解決する住民力が育っていることによってできていると思う

 

  これらの問題は、なぜ公助だけでは掬い上げることができないのか。その理由を感じていただけたのではないだろうか。まず、本人が声をあげないので、公的機関がその問題の解決に乗り出すことが難しい。誰かが問題を見つけ出し、解決のための適切な機関につながなければならないのだ。次に、問題が解決できたかに見えても、彼らの抱える、その背景となる困難が解決していないために、結局、問題が再発してしまうケースがとても多い。そして、その背景となる困難とは、多くは、彼らが本当は社会的な支えを必要としているのに、孤立している、ということである。制度のはざまで助けてと声をあげられずに困窮している、というと、公助を求める立場からは、では、制度をつくればよいではないか、という声があがるかもしれない。しかし、社会的孤立の問題を解決するには、地域住民の支援が不可欠なのである。地域の共助が不可欠なのである。

 

 ここで、彼らのための疑似コミュニティを公的政策によって作り出す、という方法も考えられるだろう。実際、勝部さんも、引きこもりの人が少しでも外に出やすいようにと、彼らが働ける「豊中びーのびーの」という場を設けたり*8、会社を定年退職した男性たちが農業と地域福祉を学べる「豊中あぐり塾」という塾を開いたり*9することで、彼らの社会的孤立の問題を解消しようとしている。最近では「出会いの場」としての子ども食堂を広げることにも力を入れている*10。これらを、共助ではなく公助の枠組みでもっと行えばよいのではないか。他にも、老人ホームや世代を超えたグループホームを、公費で開設したり、助成したり、利用できるようにしたりすればよいのではないか。そのように考えることもできるだろう。

 

 こうした考えはもっともで、それなのに、現在、こうした公共政策はあまりにも貧弱である。これは確認しておくべきことであるし、改善を強く求めていくべきことである。しかし、それが改善されたとしても、公助だけでは、やはり不十分である。まず、公助で彼らを支援する場が用意されたとしても、既に述べたように、誰かが彼らを見つけ出してそこに導かなければ、彼らがそこにたどり着くことはできない。それも公的機関が行えばよいという考え方もあるだろうが、それには限界があるし、今度は監視社会化が危惧されることにもなる。次に、彼らの社会的孤立の問題を、公助だけで解決しようとしても、彼らと社会とのつながりは、職業専門家とのつながり以上には広がらない。公的機関の人間が彼らと関わったり、彼らが誰かに支援を求めるための費用を公費で負担したりすることはできるが、そうしてつながることができるのは、職業として彼らの支援を行う人たちに限られるからだ。もちろん、それでも誰ともつながらないよりは、はるかによい。また、それだけでなく、職業専門家の支援を受けることで、彼らが自ら社会とつながることのできる力を身につけることも期待できる。しかし、だからと言って、その力が弱ければ、相手が手を差し伸べてくれなければ、彼らは他者とつながっていくことはできない。つまり、相手の共助なしにはつながっていくことはできない。さらには、彼らとつながればよいのは職業専門家たちだけであって、「一般の」人たちはつながらなくてもよい、という共通理解が広がるとすれば、彼らは「一般の」社会から切り離されてしまう。公助だけで行えばよいとされる範囲がば広がれば広がるほど、彼らと「一般の」社会との断絶は深くなる。そうならないためには、公助だけでなく、共助も必要である、という共通理解の広がりが不可欠なのである。

 

 上に引用した記事の要約部分にあるように、彼らの社会的孤立の問題を解決するために、勝部さんは、地域に彼らの支援者を作り出すという手法を取る。そのために、地域の委嘱委員やボランティア組織を巻き込んでいく。それだけでなく、地域の人が彼らに関心を向け、彼らの事情を知る機会を仕組んでいく。そして、彼らの事情を知った人たちの間にやさしさが生まれ、支援の輪が広がっていく。私が共助を重視すべきだと主張するのは、こうした過程に、現在、不条理にはびこっている自己責任論や家族主義が打ち破られ、公助を求める態度が育まれる力を期待したいからである。こうした過程は、NHKの連載でもより詳しく取り上げられている。当該部分を引用する。

 

 

 

片づけを通じて、もう一つ大きな変化が起きました。ご本人と近隣の方々との関係が、元に戻っていったのです。一般的に、ゴミを溜め込んでいる人は、地域にとって“困った人”と見えるわけです。そして必ず「地域にこういう人がいると困る」と、排除しようとする人たちが出てきます。そうした人たちとご本人との間で、私たちは“盾になってくれる人”を見つけていきました。今回の女性のケースでは、“盾になってくれる方”は、ご近所の方でした。とてもご本人を心配されているご近所の方がいたのです。その方が「あの家の主は困った人だ」「出て行ってほしい」と思っている人たちに、「片づけが進み始めたよ」「もうちょっと待ってあげよう」と呼び掛け、ご本人に対しては「大丈夫ですよ」と声をかけてくれました。やがて、優しく声掛けをしてくれる人が増えていき、ご本人も「大丈夫かな」と感じてくれるようになり、いざこざは無くなっていきました。盾になってくれる方がいたからできたのであり、私たちの力だけでは不可能だったと思っています。

 

私たちはこれまで、400人を超える方々のゴミの片づけをしてきました。その誰もが、片づけができない様々な事情を抱えていました。一概にゴミ屋敷という捉え方ではなく、ひとりひとりが抱える課題をご本人の立場になって考えサポートしていくことが大切です。これまで述べてきたように、ゴミ屋敷の問題というのは、何か他の原因があって起きているのであって、その原因を何とかしなければ解決にはつながりません。例えば、リストラから自暴自棄な生活状態に陥り片づけをする気持ちすら起きないというような人や、家族を失ったショックから立ち直れない人、うつ状態やいわゆる発達障害だったり、認知症、知的障害といった人たちもいる訳です。ゴミの片づけが目的のすべてなのではなく、その人の生活課題をしっかりとサポートする。その上で片づけにもアプローチしていくことが大切だと思います。

 

近所の人たちが「この人ってこういう課題を抱えて、苦しい思いをしていたんだ」と理解し、つながっていく。外から見たらゴミ屋敷にしか見えないけれど、実際には大切なものが中にあったり、色々な事情も背景にはあるのだということを、片づけを通じて地域のリーダーが理解し、周りの人が冷たい言葉をかけた時には「そういうことではないのでは」と受け止めていく。先ほど「盾の役割」と言いましたが、いわゆる“包摂”ですね。排除ではなくて包み込む役割を果たしていく。そのことで、まち全体が優しくなっていく。排除ではなく、色々な課題を抱えている人のことを、地域の人たちがわかろうとするまちづくり。私たちがやってきていることは、そんなまちづくりにもつながる取り組みだと思っています。

 

外から見ているだけだと、本当の事はなかなかわからないものです。わからないから、表面的なところだけで、難儀な人、大変な人、困った人というふうに見てしまう。けれども、実際にはそれぞれ色々な事情があるわけで、それを知ることが大切なのです。そういうことなのかと知るところから、優しさが生まれてくる。私は、地域で出会ったあるボランティアの方から教えてもらいました。「勝部さん、その人の本当のこと知らんで理解せぇって言われてもわからんやろ」と。知ることによって優しさが生まれ、その人のことを理解できるようになる。自分も同じ状況に立たされたら、同じようになるかもしれないなと思えるようになる。それが共感するということだと思います。本人の生き方とか、何を大事にして生きていきたいのかといったことを、地域の人たちが肌で感じる。そこから出発していくことで、その後の支援の在り方や地域のひとりひとりの方の行動も、大きく変わっていくのではないかと思っています。

 

「貧困問題を政治利用するな」

藤田孝典と言えば、「反貧困」の活動では湯浅誠や稲葉剛・今野晴貴らと並んで名前が比較的知られた方であり、貧困問題に関してもいくつか著作をものしている。

その藤田が12月17日に12月17日に以下の様に立て続けの呟きをしているのだ。

 藤田の「左翼・リベラル批判」をめぐる反響

当然、この一連の呟きに対してはこと貧困問題に熱心に取り組んできた左翼・リベラルへの批判ということもあってか、かなり批判を招いた。例えば稲葉剛は藤田の呟きに批判的に反応している。

稲葉剛公式サイト » 「誰が貧困を拡大させているのか」という議論を恐れてはならない。

 貧困問題に関わる団体や個人が「幅広い支持」を求めるあまり、今の政治の動きに対して「まずい」と思っていても沈黙をしてしまう、という傾向が生まれてはいないでしょうか。

カジノ法案や年金カット法案、生活保護基準の引き下げといった「政治的」な課題に対して意見を述べると、自分たちの活動が色メガネで見られるようになり、支持が広がらなくなってしまうのではないか、と恐れてしまう。「左派と見られるのが怖い」症候群とでも言うべき現象が広がりつつあるように、私には思えます。

政治が良くも悪くも貧困に対して現状維持の立場を取っているのであれば、国政の課題にはタッチせず、目の前のことに集中する、という姿勢も有効かもしれません。

しかし残念ながら、今の政治が貧困を拡大させ続けているのは明白です。一人ひとりの生活困窮者を支えていく現場の努力を踏みにじるがごとき政治の動きに対して、内心、憤りを感じている関係者は多いのではないかと思います。

そうであれば、貧困の現場を知っている者として、社会に発信をしていくべきではないでしょうか。団体での発信は難しい場合もあるかもしれませんが、個々人がSNSなどで意見を述べるのは自由なはずです。

貧困問題を本気で解決したいのであれば、「誰が貧困を拡大させているのか」という議論を避けて通ることはできないのです。

現場レベルで貧困対策を少しでも進めることと、将来にわたる貧困の拡大を防ぐために政治に物を申していくことは決して矛盾していません。

その他、数々の批判が藤田に対し投げかけられた。

  一方で左翼・リベラルと目されている側からも、藤田の指摘に対し同意する意見も見受けられている。

 貧困問題にとっての「政治」とは?

この藤田の呟きをめぐる賛否両論や反響は、濱口圭一郎の以下のエントリの中での指摘が示唆的ではないだろうか。

eulabourlaw.cocolog-nifty.com

藤田さんが想定しているのは、(稲葉さんがやってきたような)貧困を問題にする政治ではなく、ややカリカチュアライズして言えば、貧困なんて問題は本音ではどうでも良いけど、ナショナリズムとか排外主義とかといった大文字のマクロ政治における左右の対立図式における陣地取り合戦の手駒として貧困問題「も」使おうという「左翼やリベラル」(略して「リベサヨ」ですか)発想に対する違和感なのでしょうし、稲葉さんがその意義を説いているのは、まさにその貧困問題を解決する回路としての政治に積極的に関わるべきということなので、実のところはあんまりずれていないように思われるのです。

 濱口の指摘や稲葉の批判を見る通り、貧困問題がこと賃労働や福祉など社会政策の中でも重要なマターであるのは今更言うまでもなく、仮にも時の政権がその政策面で不充分だったら政治家へ陳情・請願したりデモや署名で数量的に見える形で問題を顕在化させたりする「政治的」なことをしなければならないのは当然のことだろう。

だが、その「政治的」なことをする場合には当然「左翼・リベラル」のみならず政権与党の側に対しても働きかけなければならないというジレンマが存在する。政策実現を第一とするなら、政権批判側に働きかけて積極的に批判の声を挙げてもらうよりは、寧ろ時の政権の政策担当者に今どれだけ深刻な状況なのか・何故この様な政策が必要なのかということを説明しチャンと社会政策として形にしてもらう方が──こと政権与党の支持が高く野党へのそれが弱い場合には──早道であることは一面の真実だったりする。

 それは、「左翼・リベラル」の批判や(生活相談などの)日常活動が無力だということを必ずしも意味しない。逆に「左翼・リベラル」など政権批判側の批判の声が存在することで、政権側が政策を実施する意思決定を行うインセンティブになる面すらある。しかしながら例えば貧困問題や社会政策に直接的に関係ない様な「ナショナリズムとか排外主義とかいった大文字のマクロ政治」の点──もっとも間接的には無関係とも言い消れない──に関してまでワンセットにして貧困問題などの現場に持ち込むのは当事者からすれば逆に「利用されている」格好になってしまい反発すら招いて逆に「左翼・リベラル」への嘲笑ないし嫌悪へと向かうのも致し方無い。況や、其処へ怪しげな科学だのオカルティックなものを持ってきたり

d.hatena.ne.jp

貧困問題に取り組むと口先で言っていながら同じ口で均衡財政だの緊縮だの「経済右派」の主張を繰り返していれば

きまぐれな日々 野田佳彦、朝日新聞、「リベラル」等の救い難い経済政策観

松尾(匡=引用者注)氏は、スペインのポデモスもイギリス労働党のジェレミー・コービンも大胆な金融緩和を主張し、アメリカ民主党のバーニー・サンダース(残念ながらヒラリー・クリントンに負けてしまったけれども)は大規模な財政支出を公約した、それなのに… と書くが、その意味でどうしようもないのは、先の民進党代表選で圧勝した蓮舫が、3人の候補(いずれも民進党内保守派だ)のうちもっとも緊縮財政志向の強い政治家であり、しかもあろうことか幹事長に野田佳彦を選んでしまったことだろう。野田の経済政策は、安倍晋三と比較しても経済軸上の「右」側に位置する。この状態では、2006〜07年にかけて威力を発揮した、安倍政権の新自由主義的経済政策への批判は効果を持たないどころか、ブーメランとなって民進党を直撃する。安倍政権より緊縮志向が圧倒的に強い野田の経済政策では、民進党の票は、いくら「野党共闘」に助けられたところで自民党候補に勝つほどには伸びないだろう。その意味で、野田を幹事長に据えた蓮舫の人事は「敗着」になりかねない大失敗だったと言わざるを得ない。
 加えて、全く好ましくないと私が思うのは、「野党共闘」(これは次の衆院選でも行われるだろう。民進党は他党の助けを借りずに候補を当選させられるだけの力を既に失っているからだ)が進んで以来、民進党を批判しようとすると、「民進党批判をして何になる。安倍晋三(安倍政権)や自民党を助けるだけだ」と言う人間が現れて、批判が封じられてしまう風潮が出始めていることだ。

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

 

 当事者が「利用されている」と感じてしまうのも、それで「左翼・リベラル」が嘲笑ないし反発を受けるのも──日常活動として貧困問題や社会政策に取り組んでいたとしても──当然のことではないか。

いみじくも藤田はこう呟いている。この呟きの意味を改めて考えてみることは──巷間の「左翼・リベラル」への嘲笑が論外だとしても──「左翼・リベラル」のみならず政権批判側全体に突きつけられている課題なのではないだろうか。

 

再分配や貧困・社会政策を文章にするということ・報じること

WelQが医学的に怪しい記事を載せていたというのを切っ掛けに、ここ一ヶ月ばかりネットメディアことに「キュレーションメディア」と称されるものへの批判が激しい。何しろ専門家が吟味して取捨選択するという「キュレーション」本来の意味とは裏腹に、記事を書いているのは専門知識もないド素人・検索エンジンの上位にヒットするがためのマニュアルなるものさえ存在し、結果量産される記事は剽窃・盗用も目立つものばかり・それこそ掲載ページの広告費収入さえあれば何でもありな玉石混交ばかりか所謂まとめサイトアフィブログと変わらぬ屑石の山という次第だ。

とは言いながらこの問題、このブログがテーマとしている再分配、更に進んで貧困や労働・福祉の社会政策全般においても無縁とは言い切れないとこがあるのだ。

目立つ煽情的な物言い

例えば「鍋パーティーのブログ」の前身(?)とも言える「Nabe Party ~ 再分配を重視する市民の会」にしてさえ、「利潤は世界を豊かにするか」といった記事が散見される。これについては以下の以下のエントリで駁しておいた。

nabe-party.hatenablog.com

 更にこのブログでさえ、こういうエントリが上梓されたりされる。

nabe-party.hatenablog.com

 これについても以下のエントリで丁寧に批判しておいた。

nabe-party.hatenablog.com

 しかし、傍目から見てそれこそ耳目を集めやすそうなのは自分が書いた記事よりは、ともすれば自分が批判の俎上に乗せた記事の方ではないだろうか。そう、これらの記事は煽情的にモノを言っているのだ。利潤や報酬が巡り巡って責任の問題に至ると事細かに講釈するよりは利潤は我々を豊かにしない!利潤を追うのは強欲だ!というのがスカッとするし解り易い。保育園落ちた日本死ね!というのが切っ掛けとなって保育をめぐる環境の問題に関心が持たれても、そこに複雑な利害や構図が絡んでも多くの人々を納得させるには時間がかかる。そんなことより敢えて幼稚園など奴隷施設だ!再分配からも逸脱してる!と極論(暴論!?)を持ち出した方が人々の注目を集め易い。況や、SEOだのマネタイズだのに関心が偏っているまとめサイトや「キュレーションメディア」をや、である。

解り易さで削ぎ落とされる問題

 こうした煽情的な物言いや耳目を集め易い解り易さ、それはこのブログのテーマである再分配や貧困や福祉の問題、更には社会政策に至る議論さえも歪めてしまう。それを取り上げているのが『東洋経済ONLINE』で連載されていた鈴木大介「『貧困報道』は問題だらけだ」である。

toyokeizai.net

鈴木の連載はどれも貧困や再分配・社会政策に関してに関して示唆深いものを示してくれているが、中でも自分が関心を関心を持ったのは2回目の「貧困者を安易にコンテンツ化してはならない」だった。

toyokeizai.net

少しばかり引用してみよう(強調部は引用者による)。

まず第一に、多くの「速報性」を求めるテレビメディアや新聞メディアのほとんどは、限られた短い取材期間の中で当事者を見つけ、さらっと取材してそれをコンテンツにしようとしてしまう。だがことに相手が貧困者の場合、そこで起きる弊害は、甚大だ。

さまざまな当事者取材の中でも、貧困者の当事者取材は本当の対象者の像が見えて来るまでに時間がかかるのだ。理由は明らかで、重度の貧困とは複雑な要因が長期間連鎖して陥るものだからで、むしろその要因が複雑でわかり辛いからこそ、彼らは支援の手からすり抜け続けて今も貧困にあるのだと言えるから。単に昨日今日失職したからというものではないからである。

この指摘で自分が想起したのは、数ヶ月前にネットの耳目を集めそれこそ“炎上”してしまった「貧困女子高生」の一件である。

biz-journal.jp

 

togetter.com

この“炎上”、そもそもがNHKの報道子どもの貧困 学生たちみずからが現状訴える」を切っ掛けとして、ネットで“素性の洗い出し”が行われ、挙句当事者の女子高生の個人情報はおろか、趣味のグッズや映画鑑賞・千円のランチなどの“粗探し”が行われ、生活が苦しいのなら「なるべく買い物をせず、倹約に努めほどほどの生活に我慢する」のが当たり前、趣味にも金使うな・千円も食事に使うなぞ贅沢だ・・・・・という具合に「相対的貧困」の現実を無視した節倹論の嵐に。挙句、『Business Journal』で「NHK特集、『貧困の子』がネット上に高額購入品&札束の写真をアップ」(当該記事は削除されているが、2chに転載された過去ログで記事の概要は読める)というのが掲載され、女子高生は心身にダメージを受けた。

とは言いながら、この一件の発端となったNHKの報道は『Business Journal』で報じてた様にそもそもドキュメント番組として報じられたわけではない。7時台のニュースで数分間程度取り上げられたものでしかない。その限られた時間で取り上げられるのはそれこそ限られてしまうであろうし、精々表面的なとこに触れて次のニュース、ってとこだろう。それでもネットで“粗探し”が行われ、「相対的貧困」の現実とはかけ離れた俗耳に入り易い節倹論が大手を振ってしまったのだ。

bigissue-online.jp

仮にこれが数分間のベタニュースでなくて、例えばNHKスペシャルの様に長期間生活の実態を追ったドキュメンタリーだったらどうだったろうか?少なくとも件の女子高生の生活実態に関する“粗探し”に関して多くの点で誹謗中傷の種となることは明白となり、彼女のプライバシーが少し明らかになったとして“炎上”の事態は防げたのではないかとさえ思う。

煽情的で安易な俗論が実態を歪める

無論、NHKにしてみれば取り上げただけ問題意識があったのだと言えばそうなのかも知れない。だが「貧困女子高生」の一件はそうした問題意識を安易に発揮して結果的に実態とはかけ離れた俗論や煽情的な主張・誹謗中傷を誘発してしまうことを示している。加えてネットメディアは有料化によるコンテンツ提供はありながらも、大概は広告収入が柱だ。当然衆目を集め易く解り易い・時には「暴論」とさえいうのまで歓迎されてしまうインセンティブが働き易い。そればかりかネットメディアでないリアルの紙メディアでさえもこういうのが載る始末だ。

president.jp

kazugoto.hatenablog.com

詳細な批判は後藤和智のブログに譲るが、現実に生活保護を受給している人間や担当者に取材をしてこんな「ドキュメント」を「フィクション」として書いたのだろうか?それこそ昨今の「キュレーションメディア」にわんさと出た怪しげな雑文と殆ど変わりが無いレベルのが、いみじくも書店で売られる雑誌にすら載るのがこの日本である。「キュレーションメディア」のお粗末さから始まった本エントリ、結局は煽情的で安易な俗論が罷り通り実態が歪められてしまう(ネットのみならずリアルに至るまで)言論の堕落を指摘することで〆とせざるを得ない。

有害な若者向け選挙キャンペーンはやめてくれ

著者:suterakuso kojitakenさんの『きまぐれな日々』のコメント欄で生まれたコメンターです。

なお、この記事は、拙ブログの記事のコピーです。

 

 参院戦も近づき、18歳に選挙権が与えられて初の国政選挙ということで、若者向けの選挙キャンペーンも熱を帯びてきた。朝日新聞も、その流れにのった記事をいくつかあげている。そのなかで、これはちょっと有害だなという記事をみつけた。なんか若者に投票を呼びかけるキャンペーンで、世代対立をいたずらにあおるものが目立ってきているが、この記事も、タイトルをみて、またかと思わされたし、読み始めて、さらに詭弁まで使ってそれをしてやがると思ったんだけどね…。…いつものことだけど、マスコミの「分かりやすい説明」って、たいてい詭弁だよね。…それはさておき、さらに読みすすめると、これ、朝日18番の悲惨な詭弁による「財政再建ちゅう」キャンペーンじゃねーかって、心底むかついた。性質の悪いステマ。有害。若者のリテラシーをあげる気なし。

 それが、次の記事。

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『18歳が知った「シルバー民主主義」 無関心の怖さ納得』
吉沢龍彦 聞き手・仲村和代 田渕紫織 2016年7月3日05時05分

http://www.asahi.com/articles/ASJ714JGXJ71UPQJ00F.html?iref=comtop_8_07

 18歳、19歳の選挙デビューに向け、いろんな試みをしています。「お嬢様芸人」たかまつななさんの「せんきょの学校」をネット中継し、18歳のシンガー・ソングライター井上苑子さんに今の思いを聞きました。高校生の発案によるフォトコンテストも開催中です。政治のイメージをポジティブなものに変えようという試みです。

■「投票行かないと…」シミュレーションゲーム

 18、19歳の有権者がどれだけ参院選の投票に行くかに注目が集まっています。過去の選挙では若い世代ほど投票率が低い傾向が出ています。ちなみに3年前の参院選では、20代は33%、30代は44%、40代は52%、50代は62%、60代は68%でした。

 若い世代が投票に行かないと、どんな影響があるのか。Voice1819の一環で、テレビ番組などで売り出し中の「お嬢様芸人」たかまつななさん(22)の、笑える政治教育をネタにした「せんきょの学校」を動画配信サービス「ツイキャス」でネット中継しました。生徒役として18歳、19歳を代表して、大学生シンガー・ソングライターましのみさん(19)と、ジャニーズの嵐の大ファンという専門学校生さとえりさん(18)が参加しました。ツイキャスで録画が視聴できます。

 たかまつさんが始めたのは、「逆転投票シミュレーションゲーム」。「50歳以下の選挙権は廃止する」という政策に賛成か反対か、投票で決着させようというゲームです。

 その場にいた記者を含め、18歳高校生、20代会社員、40代主婦、60代会社員、80代高齢者という役割に分かれた5人が投票します。50代以上は自分たちの利益が膨らむであろう「50歳以下の選挙権廃止」に賛成し、50歳未満は反対します。

 人数だけなら、3対2で反対多数です。でも、実際の社会では年代ごとの有権者数が違います。その実勢に合わせて80代には40点、60代には90点、40代には90点、20代には60点、10代には10点を与えます。点数の合計だと、賛成130点、反対160点と、なお反対が優勢です。

 ここで、たかまつさんが尋ねました。「でも、みんなが投票に行くでしょうか」

 「あっ!」「そういうこと?」。生徒からつぶやきが漏れます。

 10代の投票率はまだ分からないので、仮に50%としておきます。それ以外は過去の選挙での実績を当てはめます。20代30%、40代50%、60代70%、80代60%として先ほどの点数にかけ合わせると――。

 賛成87点、反対68点。賛否が逆転し、むちゃくちゃな政策が通ってしまいました。

 「これが実際の世の中で起きていることなんですね」とたかまつさんは解説します。さらに、舞台に立つ時に客層を見て受けそうなネタを選ぶと自分の体験を話します。「政治家も客層、つまり有権者を見て政策を変えて当然ではないでしょうか」と話を締めくくりました。

 少子高齢化にともない、高齢者層の政治への影響が強まることは「シルバー民主主義」と呼ばれます。実際、日本で1人が一生の間に政府に払うお金(税金など)と、政府から受け取るお金(年金など)の収支は、年代ごとに大きな差があると言われます。60歳以上は4千万円のプラス、20歳未満は8千万円以上のマイナスという試算があることを、たかまつさんは紹介しました(小黒一正・法政大学教授の試算)。

 もちろん現実の政治は、世代間でいがみあい、税金を取り合っているだけではありません。お互い力を合わせ、支え合い、よりよい社会を作っていくことが大切です。

 そのためにも、まずは投票に行くことが大切――。これがたかまつさんのメッセージでした。

 「深い……」と授業中につぶやいていたましのみさん。「私だけでなく、まわりを巻き込まないと。みんなで選挙に行こうと呼びかけます」と話しました。

 さとえりさんもこう言います。

 「政治や選挙に関心を持たないと、ほんとコワイんだなって思いました。自分だけがそう思っていても仕方がないので、友だちも誘って投票に行きます」(吉沢龍彦)


≪続きの引用は省略≫


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

…あのさぁ。なにが、「深い……」だよ。申し訳程度に、「もちろん現実の政治は、世代間でいがみあい、税金を取り合っているだけではありません。お互い力を合わせ、支え合い、よりよい社会を作っていくことが大切です。」なんて、優等生なこと言っているけどさ。。。その前に、「これが実際の世の中で起きていることなんですね」なんて、断定調で言って、そんなんにはじめて「深い……」なんて言うような「若者」たち誘導しておいて、そんなん言っても、そりゃあんまり意味ないでしょ。とはいえ、そこはまだいいよ。確かに、そうでもして関心を呼び覚ます必要もないとはいえないし、いちおう、申し訳程度のことは言ってるしさ…。

 でも、これに、よりによって、「財政再建ちゅう」くっつけるか?! 元財務官僚、あえてこの言葉を使うけど、御用学者、小黒一正だぜ! 小黒については、これ↓を参照ね。

『まだ家族に例えるのね…』
http://d.hatena.ne.jp/suterakuso/20131224/1387895160

ああ、小黒が世代間格差のことを言っているのは、まだいいんだけどね。ただ、これ、社会保障切り捨てのステマだよね。本当の格差のことじゃないよね。いや、小黒や朝日が、高所得者資産家の負担を求めつつ、社会保障のなかでも元高所得者資産家の社会保障の切り捨てだけを求めるってんなら、そりゃ、すばらしいけどさ。どうせ、こいつらが気にしているのは、自分たちが安定してラグジャリーに生きれるシステムの維持だけでしょ。


 こんな「主権者教育」より、今、若者に一番求められているのは、資産家やマスコミ金融機関大企業エリートの人間なんかの生活がどうなっているのか、いっぽう、例えば、非正規の若者や、福祉関係の職につく若者たちの生活はどうなっているのか、そういう現実をまざまざと直視させること、そして、それが「政治」によってつくられるシステムの上に成り立っているということを知らせること、それこそが絶対に必要だと思うけどね。

#保育園落ちたの私だ も育児休暇も根っこは同じなのだよ、大馬鹿者。

この匿名ブログが発端となって、この数日ばかり国の保育政策の貧困振り保育士の労働環境の劣悪さなど保育絡みの様々な問題が俄然注目されている。元々が匿名ブログへの投稿だっただけに政権側も当初はスルーを決め込んでいたが、 #保育園落ちたの私だ というタグがTwitterを席巻し終には国会前でデモが行われたり2万7千を超える署名が厚生労働大臣に突き付けられるなど、ここ最近の経済不調に加えて政権にとっては更に悩みのタネ(?)が増えた格好だ(おまけに総理大臣の家庭教師だったという自民党議員が「『死ね』という言葉には違和感がある」と言い出して、これまた批判の的にされて火消しに追われる始末)w

それならば、肝心の野党は何をやっている?と言えば、実はこれがお寒い代物ですらあったりする。

記事で「保育士や幼稚園教員の賃金は全産業平均より月11万円ほど低く、保育士の確保が難しくなっている」との指摘があるにも関わらず、「待機児童の解消のために人材を集めやすくする狙いで、保育士や幼稚園教員の賃金を引き上げる事業者に助成金を支給し、1人あたり平均で月1万円の賃金上昇を想定」しているというのだから、焼け石に水にも等しい弥縫策だということは一目瞭然だろう。「消えた年金」問題で華々しく活躍して“リベラル”の長妻昭氏が「相当な予算をかけて待ったなしで取り組んでいく課題だ」と強調していることすら空しく聞こえてしまう。そしてネット上の評判も散々、あまりに煽情的なものまで出る始末だ。

あの橋下徹までしゃしゃり出て(与党の無策を棚に上げて?)「幼稚園児でも言える政策」などと言うくらい、最早売り言葉に買い言葉・一帯具体策として何が必要かという冷静な議論は何処へ行ったのやら、って空気になっている。そもそも件のブログ自体、「不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ」「保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。国が子供産ませないでどうすんだよ。金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ」と言うくらい、それこそ保育政策への貧困から煽情的な物言いになっている面仕方がないと言えば仕方がないのかも知れないが。とは言いながら、味噌も糞もひっくるめて不満を爆発させている上に、更に煽情的な物言いで他の政策課題まで巻き込んでしまう危うさすらある。

そうこうしているうちに、ここ「鍋パーティーのブログ」にまで、こんなエントリが出てくる始末だ。

もうここまでいくと、最早再分配も社会政策も滅茶苦茶にした暴論としか思えない。そこで、このエントリを批判の俎上にあげてみよう。

そもそも『保育園落ちた日本死ね!!!』と言ったのは「エリート正社員」層なのか?

件のエントリでは、こう断言している。

このエントリーでは既婚者側の一方的な主張だけが書き殴られていて、子供たちの面倒を見る側の保育士に対する配慮が何ひとつ書かれていないからだ。前々から言われていることだが、日本の保育士の給料はあまりにも安すぎるのが現状である。以下、保育士の給料や労働時間などを調査したサイトを紹介するが、平均月収21万円、年収にして310万円しかもらえていない。しかも、所得税社会保険などを引かれたら、完全に年収300万円以下のワーキングプアだ。

 

断言しよう。保育士はれっきとした「奴隷」だ。そして、その「使用人」は、難関大学を経て一流企業に就職し、人生の勝ち組という名のレッドカーペットを我が物顔で闊歩している「エリート正社員」層なのだ。

しかし、その匿名ブログのエントリを書いた当人に、実は朝日新聞が取材している。

記者がメールでブログの主に連絡を取ると、東京都内に暮らす30代前半の女性と名乗った。夫と間もなく1歳になる男児と3人暮らし。事務職の正社員で、4月に復職の予定だったが、保育所に子どもを入れられなかったという。

 

都内の40代女性は5年前に出産。子どもを保育所に預けられなかったため、半年間、育児休業を延長し、その間に認可外保育所を探して職場復帰したという。「ブログの表現は乱暴だけど、よくぞいってくれたという気分」

 

ネット上の議論の矛先は国会論戦の「中身のなさ」や「やじの多さ」にも向かう。1歳の男の子を育てる女性(36)は「ブログを読み、自分の首がもげるのではと思うくらいうなずいた。国会のやりとりを聞いていると、政府が本気で考えているとは思えない」と憤った。

おそらくは件のエントリを書いた当人もこの記事を見ていたかも知れない。そして「正社員」という言葉から脊髄反射的に「エリート」ってステレオタイプを想像し、そこから「保育所落ちたの私だ」とデモしたり署名を出したりしたのを攻撃することになったのは容易に想像できる。

だが、果たして「保育所落ちたの私だ」と言い出しているのは「エリート正社員」なのか?というのがそもそも疑問符をつけざるを得ない。保育所の入所に際しては所謂各自治体ごとに入所選考基準が示されているが、例として我が地元・土浦市の例を挙げてみよう。就労時間に注目して頂きたい、正社員正規雇用の様に)就労時間が長い方が優先されて(パートや非正規雇用の様に)就労時間が短いと不利になるのが判る。少し古いデータになるが日本総研の新美一正が次のように指摘している。

こと近年の待機児童急増化問題の要因に注目を集中するならば、女性の自発的な社会進出願望の高まり以上に、生活防衛のために就業を余儀なくされる」ようになった女性数の急増、という社会状況変化のインパクトの方がはるかに大きい。このことは数字にもはっきり示されていて、97年4月の東京都の調査では、待機児童の母親はフルタイム(週35時間以上就労)の12%に対して、パート(同35時間未満)が46%求職者36%と、後2者の比重の方が圧倒的に高くなっている。認可保育園では入所基準の1つとして労働時間の長さを採用しているので、フルタイム勤務者児童の入所が優先されることも、その一因だ。生活防衛のためにパートに出ようとしても、認可保育園への入所は難しい。無認可保育園は質のばらつきが大きく、認可園以上の保育内容を持つところもあることは事実だが、それらの保育料は一般に認可園より高く、パート労働者の保育ニーズの受け皿とはなり得ない。保育料支出がパート収入を上回るようでは、そもそも就業する意義が失われてしまうからだ。勢い、こうした低所得層の保育ニーズは保育料の安い――えてして保育内容の劣悪な――一部の無認可園に流れることになる。

20年前から既にこうした問題は指摘されていて尚且つ未だ未解決(!)ということにも唖然としたくなるが、少なくとも「人生の勝ち組という名のレッドカーペットを我が物顔で闊歩している『エリート正社員』」という非難は現実とはかなりかけ離れた論難でしかない。寧ろ実際には「エリート正社員」の多く住む都心部に於いてこそ待機児童数が殆ど無いか少なく、待機児童数を多く抱えているのは大都市近郊の住宅立地の多い自治体であるということを考えれば「エリート正社員」でない方が保育所に入れないという可能性が大きい(そもそも、そうした「エリート正社員」の勤務する企業なら企業内で託児所を設置したりすることも──いわゆるCSRやインナー=マーケティングとして──珍しくはない)。

育児休暇を取ればいい?

更に件のエントリではこうも言っている。

「保育園が足りない」って叫ぶくらいなら、管理職に対して「育児休暇を認めろ」って要求したほうが手っ取り早いんじゃないですか? 「恩恵」を十分に受けている正社員なら、それぐらいの「労働者の権利」はいとも簡単に行使できますよね?

この御仁にとっては、いわゆるマタハラ(マタニティ=ハラスメント)さらにはパタハラ(パタニティ=ハラスメント)は存在しないことになっているんだろうか?

今引用したコトバンクにも記述がある様に、マタハラにしても現実には女性が被害を訴えられずに泣き寝入りしているのが多かったりする上に、男性のパタハラでも現実の人事考課や処遇とかの影響で「労働者の権利」を行使しようにも行使できなかったりするのが常なのだ。加えて正社員に比して身分が不安定になりがちな非正規雇用だったら尚更困難なのは普通の常識の持ち主なら理解できるだろう。無論、男女雇用機会均等法や育児・介護休業法でタテマエの上では労働者に不利益な取り扱いをするのは禁じられている。それでもマタハラ・パタハラに遭ったという声は今なお少なからずある上に、出産して育休を取ったら(保育園が見つからなかったという理由で!)契約社員に降格され更には“雇い止め”で裁判になった事例さえ存在するのだ。

育児休暇も保育サービスも実は根っこは同じ

そもそも、保育園や幼稚園など保育サービスの充実を目指す政策と育児休暇を別次元どころか対立した政策として扱っていることに、件のエントリの最大の問題がある。

上記に挙げたのは、いわゆる会社で働きながら一方で保育サービスを受けている親たちの団体のだが、其処ではサービス事業者の時間内に子供を迎えられない場合の根拠法として「介護・育児休業法」が挙がっている(第16条の8)のだ!つまり育児休業法で育児の時間を確保することと保育サービスを充実させることは、出産や育児によって男女ばかりか担い手になるかに因って処遇や待遇に悪影響が出ない様にする政策だという点で同根ですらあるのだ。

しかも、

そもそも保育士に多額の給料を支払っても、それを消費するだけのプライベートな時間がなかったら全く意味がないではないか

と一見保育士に対し「弱者の味方」ぶったことを行ったのと同じ口でこう言っている始末だ。

私は「育児は家でやれ」と主張している。しかし、それはあくまでも育児休暇などの社会保障が充実しているという意味においてである。

 バカなの?死ぬの?そもそも保育士だって結婚して子供を産むこともあれば人の親にもなるでしょ?それで「育児は家でやれ」って、それこそ子供を産んだらプライベートな時間は犠牲にして育児に専念しろとでも言いたいの??そうでなくても、ここ最近は児童虐待とかネグレクト(育児放棄)だのとかが問題になっている(というより問題があからさまになっていると言うべきかも)御時世だ。ともすれば「育児は家でやれ」ってことで逆に親が全ての責任を押し付けられた挙句、子供を手にかける・・・・・なんてことだって決して可能性は低くない。「育児休暇などの社会保障が充実している」なんて言い訳程度の前提をつけてみたところで、結局は育児を凡て親の自己責任に帰す筋悪の主張にしかならない。

「あいつらは自分たちとは違う」が齎す害悪

今批判の俎上に挙げたエントリをはじめ、いわゆる再分配や福祉など社会政策の議論には後藤和智が指摘した様な)「あいつらは自分たちとは違う」という俗論に靡き易いきらいがある。つまり自分たちは恵まれてないのに何故あいつらは特別扱いされるのか云々という次第だ。その場合の「あいつら」は例えば女性や正社員であったり老人であったり或いは生活保護受給者や障碍者・在日外国人など兎に角「自分たち」と違うのが槍玉に挙がる。そして「あいつら」が受けている措置を味噌も糞も一緒にして“特権”として非難し、「自分たち」の犠牲の上に成り立っているのだから“特権”を剥奪しろ・意見を言うな・贅沢を言うな・少数派だから遠慮せよ等々と言っては、それこそ「自称弱者」或いは「自称弱者の味方」として振る舞い、そして「本当の弱者」を救う具体策に関しては何も持ち合わせていないばかりか無関心だったりするのだ。

正直なとこ、このエントリを書くだけでも自分としては無力感や徒労感を感じざるを得なかった。結局、一連の問題をめぐる言動を見ていて自分が呟いたことをここで繰り返さざるを得ないのだ。

保育園・幼稚園は現代の「奴隷施設」だ! ~保育施設の充実は所得再分配の論理から完全に逸脱している~

今回は、あえて炎上しやすいタイトルをつけてみた。というのも、先日の増田の何げないエントリーから始まって、ネット上で拡散されて、新聞・テレビで取り上げられて、果ては安倍晋三までもが予算委員会で発言するなど、保育園不足の深刻さが世間の注目を集めているからである。だが私は、安倍に注目されてうつつを抜かしているリベラル勢力の浮かれっぷりを見ていて、心底情けなくなってしまった。あれだけ安倍に敵意をむき出しにしていたリベラルはいったいどこに行ってしまったんだと思ったほどである。というわけで、このエントリーでは、私が保育園・幼稚園増設論を見ていて感じたいくつかの疑問について書き綴ってみたい。なお、これから先は既存のリベラル勢力にとって都合のいいことが何ひとつ書かれていないので、気分を害した方はいつでもページを閉じてもらって結構である。

 

●「育児休暇待望論」はどうなった?

今年2月、男性の育児休暇を推進している自民党・宮崎謙介議員の不倫が発覚し、議員辞職に追い込まれた。私はアンチ自民党だが、閉塞しきった日本社会に風穴を開けようとしていた彼の姿勢だけは高く評価していた。それだけに彼の不貞行為には怒りをおぼえるが、だからといって、これを理由に男性の育児休暇を廃止しようとする動きだけは何としても阻止しなければならないと思っている。私は宮崎議員が党の垣根を超えて男性でも育児休暇を取れる環境を整備してくれることによって、ガラパゴスと化した日本の労働環境にもようやく明るい光が差し込むと期待を抱いた。

 

2月15日、状況は一変した。

anond.hatelabo.jp

保育園に入れなかった親御さんの恨み節が大きな反響を呼んだのだ。それだけではない。「児童手当20万円にしろ」「不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ」と、まさに怒り狂っているのだ。

 

私は強い違和感をおぼえた。というのも、このエントリーでは既婚者側の一方的な主張だけが書き殴られていて、子供たちの面倒を見る側の保育士に対する配慮が何ひとつ書かれていないからだ。前々から言われていることだが、日本の保育士の給料はあまりにも安すぎるのが現状である。以下、保育士の給料や労働時間などを調査したサイトを紹介するが、平均月収21万円、年収にして310万円しかもらえていない。しかも、所得税社会保険などを引かれたら、完全に年収300万円以下のワーキングプアだ。「だったら、保育士の給料を上げればいいじゃないか」と反論する輩がいるが、そもそも保育士に多額の給料を支払っても、それを消費するだけのプライベートな時間がなかったら全く意味がないではないか。このサイトには平均的な保育士の労働環境が示されているが、昨今の悲惨な保育園事情を鑑みるに、実際の現場ではかなりのブラック労働が蔓延していると予測できる。

 

断言しよう。保育士はれっきとした「奴隷」だ。そして、その「使用人」は、難関大学を経て一流企業に就職し、人生の勝ち組という名のレッドカーペットを我が物顔で闊歩している「エリート正社員」層なのだ。

hatopi.com

 

●都合の悪いときだけ「弱者」を装う人たち

なぜ、エリート正社員は「保育園の数が足りない」と叫ぶのか。それは、自分たちが日本の労働社会における「恩恵」を一番享受しているからであろう。面倒な汚れ仕事は下っ端の非正規労働者に丸投げし、面倒な育児は負け組の若者に押し付けてやれ。だが、自分たちの地位を脅かそうとする管理職やカイゼン至上主義者に対しては徹底的に「弱者ヅラ」する――。これが日本の会社をガラパゴスにした元凶なのだ。「保育園が足りない」って叫ぶくらいなら、管理職に対して「育児休暇を認めろ」って要求したほうが手っ取り早いんじゃないですか? 「恩恵」を十分に受けている正社員なら、それぐらいの「労働者の権利」はいとも簡単に行使できますよね?

 

これはあくまでも私の邪推だが、安倍は「保育園の増設」にある程度の関心を寄せていると思う。ただし、来るべき参院選に向けての「カード」としての意味でだ。参院選に何が何でも勝ちたい安倍は、保育園の増設・充実や同一労働同一賃金(私はこの政策にも懐疑的な見方をしているが)といった「リベラルっぽい政策」を打ち出すパフォーマンスを披露することで、リベラルの切り崩しを目論んでいるのではないか。そして、リベラルからの「消極的支持」を勝ち得た安倍は、正々堂々と「社会保障の削減」を宣言する。年間の自殺者数が再び3万人を超えるのも時間の問題であろう。

 

閑話休題。私は「育児は家でやれ」と主張している。しかし、それはあくまでも育児休暇などの社会保障が充実しているという意味においてである。なので、以下のような「家族主義」や「独立自尊」というネトウヨ思想を前面に打ち出した、自称ジャーナリストの戯言には一切同意するつもりはないことを付け加えておく。

agora-web.jp

 

●必要なのは所得再分配なのだ、ばか者

最後に、「正規vs非正規という対立をあおるな」という批判にも一喝しておこう。その対立に今まで見て見ぬ振りを決め込んできたのはどこのどなたでしたっけ? あなた方は今ごろになって職場における非正規社員の救済を訴えているが、本来ならば非正規から石を投げられてもおかしくない立場の人間であることを自覚すべきであろう。あなた方が座っているその椅子は、数多くの非正規社員が流した莫大な血と涙の上に成り立っているのだ。

 

結局、ネトウヨからサヨクまで「働かざる者食うべからず」という社畜根性が染みついてしまった中世ジャップランド日本からは、もはや亡命するしかないのだろうか? この国の「自称弱者」たちがくだらないパフォーマンスを繰り広げている限り、「本当の弱者」が救われることはないのだ。

「新たな価値観」は何のため?──あるいは「定常社会」のおぞましさについて

このブログの最初で、安冨歩のピケティdisにかこつけたノブレス=オブリージュ・階級社会賞賛にブチ切れたことに触れたが、それから優に1年近くして又もやブチ切れる一文を目にする破目になった。

移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)

移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)

 

 平川克美の本職は立教大学教授だが、その傍らでカフェを経営していたり所謂現在の「資本主義」に対する“オルタナティブ”──「新たな価値観」ってのを数年前くらいから提示していて著作も何冊かものしていたり、昨今“リベラル”とやらに持て囃されている内田樹(しかも平川のビジネスパートナーだったりする)などと共著を出したりして、“リベラル”やら所謂“アベ政治”に批判的な面子からは受けがいいそうだ。

で、その平川の著作の一つを紹介するのが件の一文ということなのだが、 これが何とも酷い。何処をどう解釈すれば“リベラル”になるのか疑問符がつく代物だ。

株価というのは上下動を繰り返すものであり、上がる時もあれば下がる時もある。2015年6月24日には2万952円と2万円を突破したのだから(これは2000年以来15年ぶり)、これだけで日本経済、ひいては世界経済の先行きを不安視するのは間違いかもしれない。上下動を続けながらも右肩上がりの成長を続けていくのが、資本主義社会でのあるべき姿なのだから、目の前の値動きに一喜一憂する必要はない、という人もいるだろう。

だが、本当にそうだろうか? と疑問を投げかけているのが、今回紹介する『移行期的混乱(ちくま文庫)』(平川克美/筑摩書房)である。とはいっても、これは投資に関する本ではない。経済には関係しているけれど、1、2年いや5年といった短中期的なスパンではなく、長期的な視野に立った一冊だ。

著者、平川克美氏が着目するのは、人口動態。日本の人口は2008年の1億2808万人をピークに、減少に転じている。2048年には9913万人と1億人を割り込み、2060年には8674万人まで減少すると見込まれている。このような急激な人口減少社会は、有史以来初めてのことだ、という。

人口が減少すれば消費も減る。消費が減れば当然経済成長も鈍化する。今後、日本の経済は人口減少に合わせて縮小していくのが、自然な姿ではないか、というのが本書の論旨。経済が成長していくのを前提とした国家戦略や将来を語るのはやめにして、ゼロ成長時代の新しい生き方を考えようよ、と著者はいう。

(中略)

仕事が日常の一部だった時代から、余暇を楽しむために仕事をする時代に変わる。その考え方は先鋭化し、「仕事=お金」という金銭至上主義にまで至る。現在がその延長線上にあることはいうまでもないだろう。

仕事はお金のためにすることであり、お金があれば働く必要なんてない。どんな仕事をしていようが、お金さえ稼げれば問題ない。働くことの価値が、金銭一元的になることで、職業倫理、働く上でのモラルの崩壊をもたらしている、という指摘は多くの人が頷けるのではないだろうか。

今後も資本主義はうまくいき続け、経済は成長し続ける。それが幻想のようなものだ、ということを、今多くの人はうっすらと実感している。じゃあどうすればいいんだろう、という問いに対する答えは、この本の中にはない。答えはそれぞれの人生の日々の中にある。自分の働き方を見つめ直すこと、豊かさとは何か知人や友人と話してみること。そんな日々から紡ぎ出される各自の答えが、また新たな価値観、サイクルを作り出すのではないだろうか。それはきっと、ゼロ成長経済時代にふさわしい、自分たちの身の丈にあったものだろうから。

 この文章自体は平川が書いた訳ではないし言わば著作の紹介という形ではあれど、この文章を目にして自分はブチ切れてこう呟いてしまったくらいだ(しかも多くのRTとFavがついている)。

「身の丈にあった」生活が果たして幸せか?

 そもそも件の文章には、初っ端から突っ込みどころがある。例えば人口減少社会は先進国でも見られる現象でありながら、実際には日本だけが経済成長が停滞しているという事実を見ていない。しかも先進国はそういう事態を受けて例えば子育て支援とか男女共同参画とか様々な施策で何とか少子化・人口減少に歯止めをかけようとしたり、移民を受け入れるなどして生産人口を増やそうとしていたりしてるのに、そうではなく「人口減少に合わせて縮小していくのが、自然な姿」「経済が成長していくのを前提とした国家戦略や将来を語るのはやめにして、ゼロ成長時代の新しい生き方を考えよう」と言うのは、そうした施策なんてやっても無駄・人口減少をするならそれなりに余計な支出を省け・無駄を無くせってネオリベや財政緊縮策(それは皮肉にも現政権がやっている政策ですらある!)への援護射撃でしかならない。「『仕事=お金』という金銭至上主義」批判にしてさえ、以前批判した様な俗流の「利潤は世界からのピンはね」言説と殆ど変わりが無い。

そして何よりも見過ごせないのが、「ゼロ成長経済時代にふさわしい、自分たちの身の丈にあったもの」とやらを「新たな価値観、サイクル」として持ち上げていることだ。確かに「身の丈にあった」云々と言うのは、既に一財産を築いて生活に困っていない層ばかりかそこまで財産がある訳ではないが何とか遣り繰りに困らない生活を送っている層にとっては往々にして受入れられ易い。つまり「自分たちの身の丈」なるものを弁えれば精々少しばかりの我慢で実行できることであり、それこそ生活ばかりか例えば何らかの労働や教育の機会とかに影響を与える訳ではない。だが、その日の生活に汲々として遣り繰りにも苦労している貧困層にとって「身の丈にあった」という言葉は凶器にしかならない例えば低賃金に甘んじて過酷な労働環境にいようとも保育園にも通えず医者代にも一苦労・上の学校に通うにも資金的に困難・・・・・といったいわゆる貧困層が抱えている切実な問題を(それこそ政策の不備や経済の不調のせいではなく)「身の丈にあっていないから悪い」という道徳的な問題に置き換えられてしまい、それこそ「身を弁える」格好で赤貧に甘んじるのが当然それ以上のことを求めるのは「過ぎたこと」として貧困を強いられてしまうのは当然の帰結とも言えるだろう。何しろ「身の丈」を決めるのは企業や政府・自治体であって、少なくとも自分たちが決められる環境に無いのだから。しかも、其処から抜け出すのは「身の丈にあっていない」過ぎたこととして非難される訳で、それこそ貧乏に産まれれば一生貧乏・その子孫も一生貧乏という大昔の閉鎖的階級社会(=「定常社会」!)そのもののディストピアにもなってしまう。

そうでなくても、平川に限らず最近では“断捨離”・“持たない生活”だのこの手の「新たな価値観」が持て囃されることが多い。しかし、こうした“シンプルライフ”的なモノにしてさえ「身の丈にあった」生活と同様に、貧困層には酷にしかならない。それこそ前回批判した「公正社会信念」の変奏でしかないのだ。

 

内田樹の閉鎖的階級社会=「定常社会」賛美

ところで、前述したが平川のビジネスパートナーで尚且つ共著書も多いのが、それこそ“アベ政治”批判界隈で今をトキメク内田樹だったりする。

 で、昨年初頭にこの二人は「フェアな再分配」とやらで実際に語り合っていたのだ。

詳細は上記togetterのまとめを参照して頂くとして、この二人は「パイは増えないのだから仕方がない→取り敢えず“相互扶助”で何とかしろ」と何ともお気楽なことで済ましているのだ。内田の呟きから幾つか拾ってみよう。

新版 相互扶助論

新版 相互扶助論

 

 アナーキスト=プリンスと称されるクロポトキンが引き合いに出されている辺り、一見すれば“リベラル”で“オルタナティブ”なお説に聞こえてしまうのも無理はあるまい。しかし相互扶助ないし“共助”を余りに過大に評価しているところも問題だが(この辺りは藻谷浩介など“リベラル”受けし易い論者がいたりするので、稿を改めて批判の俎上に乗せたい)、そもそも内田が(そして平川も)「定常社会」を必然且つ理想化しているところは見過ごすことが出来ない。

内田の「定常社会」観が如何におぞましい代物であるかは、彼の著作『街場の共同体論』に関する以下の呟きやtogetterのまとめを見ればハッキリするだろう。

街場の共同体論

街場の共同体論

 

 内田は無邪気に「江戸時代は偉かった」と賞賛しているが、江戸時代は武士の下に町人・農民が人別帳や寺請制度で管理されながら五人組を組まされ相互扶助も行う一方で)相互に監視し合っていたのである。しかも武士と町人・農民の階層移動も現代に比して低く、家の生まれでその後の一生が殆ど決まることが常だったりしたのだ。これが内田が「偉かった」と賞賛した江戸時代という「定常社会」だったのである。

 更に内田は文藝春秋2014年6月号の「安倍総理の『保守』を問う」という小特集でも寄稿しているが、そこでも鎖国や五人組・閉鎖的階級社会を賞賛していて“アベ政治”に批判的な連中の中の「保守」にしてこの体たらくという読後感しか持てなかった。ちなみに同誌では、他にも孫崎享靖国神社参拝や従軍慰安婦問題にかこつけて戦前の大日本帝国賛美で何が悪い!と開き直っていたり、田中康夫がノブレス=オブリージュにかこつけて前近代的な封建制を賛美したり、かつては「新党さきがけ」のリベラル的存在だった枝野幸男八百万の神々と口にしたり・・・・・とあまりのこれはひどい振りで読むのが苦痛だったと付け加えておく。

文藝春秋 2014年 06月号 [雑誌]

文藝春秋 2014年 06月号 [雑誌]

 

 とは言いながら、こうした「定常社会」や“共助”更には断捨離”・“持たない生活”といった代物が矢鱈に理想化されて賞賛され新たな価値観」として持て囃されることが“アベ政治を許さない”面子にすら結構いたりする。何しろ社会民主主義を掲げる党の前の党首が(それこそ“社会”も“民主”も欠片も無い様な保守反動でしかないとしか思えない)内田と意気投合する始末である。そして、現実の“アベ政治”の緊縮財政や社会政策の縮減の被害を受ける層はこういう「新たな価値観」の持つおぞましさを知ることで、他に選択肢が無いと思う様になり結果的に安倍政権自民党も支持率が高いまま、現実の“アベ政治”を全く止められないでいるということになっているのだ。

「意地悪」化する日本

「意地悪」化する日本