鍋パーティーのブログ

再分配の重視を求める「鍋パーティー」の共用ブログです。

「新たな価値観」は何のため?──あるいは「定常社会」のおぞましさについて

このブログの最初で、安冨歩のピケティdisにかこつけたノブレス=オブリージュ・階級社会賞賛にブチ切れたことに触れたが、それから優に1年近くして又もやブチ切れる一文を目にする破目になった。

移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)

移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)

 

 平川克美の本職は立教大学教授だが、その傍らでカフェを経営していたり所謂現在の「資本主義」に対する“オルタナティブ”──「新たな価値観」ってのを数年前くらいから提示していて著作も何冊かものしていたり、昨今“リベラル”とやらに持て囃されている内田樹(しかも平川のビジネスパートナーだったりする)などと共著を出したりして、“リベラル”やら所謂“アベ政治”に批判的な面子からは受けがいいそうだ。

で、その平川の著作の一つを紹介するのが件の一文ということなのだが、 これが何とも酷い。何処をどう解釈すれば“リベラル”になるのか疑問符がつく代物だ。

株価というのは上下動を繰り返すものであり、上がる時もあれば下がる時もある。2015年6月24日には2万952円と2万円を突破したのだから(これは2000年以来15年ぶり)、これだけで日本経済、ひいては世界経済の先行きを不安視するのは間違いかもしれない。上下動を続けながらも右肩上がりの成長を続けていくのが、資本主義社会でのあるべき姿なのだから、目の前の値動きに一喜一憂する必要はない、という人もいるだろう。

だが、本当にそうだろうか? と疑問を投げかけているのが、今回紹介する『移行期的混乱(ちくま文庫)』(平川克美/筑摩書房)である。とはいっても、これは投資に関する本ではない。経済には関係しているけれど、1、2年いや5年といった短中期的なスパンではなく、長期的な視野に立った一冊だ。

著者、平川克美氏が着目するのは、人口動態。日本の人口は2008年の1億2808万人をピークに、減少に転じている。2048年には9913万人と1億人を割り込み、2060年には8674万人まで減少すると見込まれている。このような急激な人口減少社会は、有史以来初めてのことだ、という。

人口が減少すれば消費も減る。消費が減れば当然経済成長も鈍化する。今後、日本の経済は人口減少に合わせて縮小していくのが、自然な姿ではないか、というのが本書の論旨。経済が成長していくのを前提とした国家戦略や将来を語るのはやめにして、ゼロ成長時代の新しい生き方を考えようよ、と著者はいう。

(中略)

仕事が日常の一部だった時代から、余暇を楽しむために仕事をする時代に変わる。その考え方は先鋭化し、「仕事=お金」という金銭至上主義にまで至る。現在がその延長線上にあることはいうまでもないだろう。

仕事はお金のためにすることであり、お金があれば働く必要なんてない。どんな仕事をしていようが、お金さえ稼げれば問題ない。働くことの価値が、金銭一元的になることで、職業倫理、働く上でのモラルの崩壊をもたらしている、という指摘は多くの人が頷けるのではないだろうか。

今後も資本主義はうまくいき続け、経済は成長し続ける。それが幻想のようなものだ、ということを、今多くの人はうっすらと実感している。じゃあどうすればいいんだろう、という問いに対する答えは、この本の中にはない。答えはそれぞれの人生の日々の中にある。自分の働き方を見つめ直すこと、豊かさとは何か知人や友人と話してみること。そんな日々から紡ぎ出される各自の答えが、また新たな価値観、サイクルを作り出すのではないだろうか。それはきっと、ゼロ成長経済時代にふさわしい、自分たちの身の丈にあったものだろうから。

 この文章自体は平川が書いた訳ではないし言わば著作の紹介という形ではあれど、この文章を目にして自分はブチ切れてこう呟いてしまったくらいだ(しかも多くのRTとFavがついている)。

「身の丈にあった」生活が果たして幸せか?

 そもそも件の文章には、初っ端から突っ込みどころがある。例えば人口減少社会は先進国でも見られる現象でありながら、実際には日本だけが経済成長が停滞しているという事実を見ていない。しかも先進国はそういう事態を受けて例えば子育て支援とか男女共同参画とか様々な施策で何とか少子化・人口減少に歯止めをかけようとしたり、移民を受け入れるなどして生産人口を増やそうとしていたりしてるのに、そうではなく「人口減少に合わせて縮小していくのが、自然な姿」「経済が成長していくのを前提とした国家戦略や将来を語るのはやめにして、ゼロ成長時代の新しい生き方を考えよう」と言うのは、そうした施策なんてやっても無駄・人口減少をするならそれなりに余計な支出を省け・無駄を無くせってネオリベや財政緊縮策(それは皮肉にも現政権がやっている政策ですらある!)への援護射撃でしかならない。「『仕事=お金』という金銭至上主義」批判にしてさえ、以前批判した様な俗流の「利潤は世界からのピンはね」言説と殆ど変わりが無い。

そして何よりも見過ごせないのが、「ゼロ成長経済時代にふさわしい、自分たちの身の丈にあったもの」とやらを「新たな価値観、サイクル」として持ち上げていることだ。確かに「身の丈にあった」云々と言うのは、既に一財産を築いて生活に困っていない層ばかりかそこまで財産がある訳ではないが何とか遣り繰りに困らない生活を送っている層にとっては往々にして受入れられ易い。つまり「自分たちの身の丈」なるものを弁えれば精々少しばかりの我慢で実行できることであり、それこそ生活ばかりか例えば何らかの労働や教育の機会とかに影響を与える訳ではない。だが、その日の生活に汲々として遣り繰りにも苦労している貧困層にとって「身の丈にあった」という言葉は凶器にしかならない例えば低賃金に甘んじて過酷な労働環境にいようとも保育園にも通えず医者代にも一苦労・上の学校に通うにも資金的に困難・・・・・といったいわゆる貧困層が抱えている切実な問題を(それこそ政策の不備や経済の不調のせいではなく)「身の丈にあっていないから悪い」という道徳的な問題に置き換えられてしまい、それこそ「身を弁える」格好で赤貧に甘んじるのが当然それ以上のことを求めるのは「過ぎたこと」として貧困を強いられてしまうのは当然の帰結とも言えるだろう。何しろ「身の丈」を決めるのは企業や政府・自治体であって、少なくとも自分たちが決められる環境に無いのだから。しかも、其処から抜け出すのは「身の丈にあっていない」過ぎたこととして非難される訳で、それこそ貧乏に産まれれば一生貧乏・その子孫も一生貧乏という大昔の閉鎖的階級社会(=「定常社会」!)そのもののディストピアにもなってしまう。

そうでなくても、平川に限らず最近では“断捨離”・“持たない生活”だのこの手の「新たな価値観」が持て囃されることが多い。しかし、こうした“シンプルライフ”的なモノにしてさえ「身の丈にあった」生活と同様に、貧困層には酷にしかならない。それこそ前回批判した「公正社会信念」の変奏でしかないのだ。

 

内田樹の閉鎖的階級社会=「定常社会」賛美

ところで、前述したが平川のビジネスパートナーで尚且つ共著書も多いのが、それこそ“アベ政治”批判界隈で今をトキメク内田樹だったりする。

 で、昨年初頭にこの二人は「フェアな再分配」とやらで実際に語り合っていたのだ。

詳細は上記togetterのまとめを参照して頂くとして、この二人は「パイは増えないのだから仕方がない→取り敢えず“相互扶助”で何とかしろ」と何ともお気楽なことで済ましているのだ。内田の呟きから幾つか拾ってみよう。

新版 相互扶助論

新版 相互扶助論

 

 アナーキスト=プリンスと称されるクロポトキンが引き合いに出されている辺り、一見すれば“リベラル”で“オルタナティブ”なお説に聞こえてしまうのも無理はあるまい。しかし相互扶助ないし“共助”を余りに過大に評価しているところも問題だが(この辺りは藻谷浩介など“リベラル”受けし易い論者がいたりするので、稿を改めて批判の俎上に乗せたい)、そもそも内田が(そして平川も)「定常社会」を必然且つ理想化しているところは見過ごすことが出来ない。

内田の「定常社会」観が如何におぞましい代物であるかは、彼の著作『街場の共同体論』に関する以下の呟きやtogetterのまとめを見ればハッキリするだろう。

街場の共同体論

街場の共同体論

 

 内田は無邪気に「江戸時代は偉かった」と賞賛しているが、江戸時代は武士の下に町人・農民が人別帳や寺請制度で管理されながら五人組を組まされ相互扶助も行う一方で)相互に監視し合っていたのである。しかも武士と町人・農民の階層移動も現代に比して低く、家の生まれでその後の一生が殆ど決まることが常だったりしたのだ。これが内田が「偉かった」と賞賛した江戸時代という「定常社会」だったのである。

 更に内田は文藝春秋2014年6月号の「安倍総理の『保守』を問う」という小特集でも寄稿しているが、そこでも鎖国や五人組・閉鎖的階級社会を賞賛していて“アベ政治”に批判的な連中の中の「保守」にしてこの体たらくという読後感しか持てなかった。ちなみに同誌では、他にも孫崎享靖国神社参拝や従軍慰安婦問題にかこつけて戦前の大日本帝国賛美で何が悪い!と開き直っていたり、田中康夫がノブレス=オブリージュにかこつけて前近代的な封建制を賛美したり、かつては「新党さきがけ」のリベラル的存在だった枝野幸男八百万の神々と口にしたり・・・・・とあまりのこれはひどい振りで読むのが苦痛だったと付け加えておく。

文藝春秋 2014年 06月号 [雑誌]

文藝春秋 2014年 06月号 [雑誌]

 

 とは言いながら、こうした「定常社会」や“共助”更には断捨離”・“持たない生活”といった代物が矢鱈に理想化されて賞賛され新たな価値観」として持て囃されることが“アベ政治を許さない”面子にすら結構いたりする。何しろ社会民主主義を掲げる党の前の党首が(それこそ“社会”も“民主”も欠片も無い様な保守反動でしかないとしか思えない)内田と意気投合する始末である。そして、現実の“アベ政治”の緊縮財政や社会政策の縮減の被害を受ける層はこういう「新たな価値観」の持つおぞましさを知ることで、他に選択肢が無いと思う様になり結果的に安倍政権自民党も支持率が高いまま、現実の“アベ政治”を全く止められないでいるということになっているのだ。

「意地悪」化する日本

「意地悪」化する日本