鍋パーティーのブログ

再分配の重視を求める「鍋パーティー」の共用ブログです。

利潤ガー報酬ガー原価ガー・・・・・そして誰も得しない社会が残った

『鍋党ブログ』で自分も含めてちょっとした論争になったエントリがある。「『利潤』は世界を豊かにするか」というエントリだ。

 

利潤は「世界からのピンはね」?

このエントリの著者はそれこそ『資本論』(のそれも入門書的なモノくらい)を齧った程度で、「『利潤』は世界に何かを付け加えていない。『利潤』はこのままでは世界からピンはねしただけだ」などと、あまりにお粗末な例示を以て利潤を「ピンはね」とさえ決めつけている。例えばこんな具合だ。

 ある画家が10円の画用紙に100円の絵の具で書いた絵が1億円でA財団に売れたとする。
世界には一枚の絵が財産として加わり、画家は9999万9890円を得たことになる。ところでここで一度確認すると、増えたのは一枚の絵だ。お金は増えていない。画家が支払った110円はいま画材屋さんの手の中にあり、A財団が払った一億円は画家の手に移った。画家は自分の絵に一億円の値がつけられたことに満足して一億円で絵をA財団に売り、A財団は一億円で絵が手に入ったことに満足して一億円を支払った。
(中略)

ここに商業資本が入り込んで、安く買って高く売る、利潤の極大化を目指したらどうなるか。

まず「資本」は画家からなるべく安く絵を仕入れ(たとえば1000円としよう)、A財団になるべく高く売る(たとえば1億円としよう)。資本の利潤は9999万9000円になる。
ところで、世界に一枚の絵を付け加えたのは画家であり、お金を払ったのはA財団だ。「資本」は何も付け加えていない。絵がより美しくなったわけではないし、お金をふやしたわけでもない。資本の取り分は本来なら仲介手数料程度のものでいいはずだ。

そもそも、たった一人の買い手と一人の売り手がいて、単純に労働価値だけで価格が決まるって巧くいくケースってそんなにあるの?ってのが先ず疑問に浮かぶだろう。実際の商取引なら何人かの買い手が競り合って売り手の思惑以上に利益を手にすることもあるだろうし、逆に全く売れなければそれこそ原価割れの叩き売りをやってでも当座の現金を確保しようって考えるのが普通だ。おまけに最初の価格通り商品の価値が何も変わらないってのも非現実的だ。仮に生鮮食料品だったら腐って売り物にならなくなったりするし、服飾品だったら流行り廃りがある。例示されてる美術品だって定期的に修繕費用が発生したりするだろうし、お金の“額面”だけ見て等価だとしてもマクロ経済的に同じ価値なのか?と疑問符は幾らでもつく。しかも、主張や議論は労働価値説そのものなのにこれは労働価値説ではありません。重農主義者が重商主義者に対してなした批判、商業は国を豊かにしない、をアレンジしただけですって意味不明な返答(それこそが労働価値説の出発点なのに!)をやっている始末だ。ちなみにこの一件に関しては、自分でも今一つ納得出来なかったので(最近アベノミクス批判の新著を出した)松尾匡氏にメールを出し納得できる回答を頂いた。

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

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 利潤はピンハネ・報酬もピンハネ・原価は・値段は・・・・

しかし、この手の利潤をピンハネという論法はどういう訳だか多くの人々が支持しちゃっているとこがあるし、それが更には報酬もピンハネ・原価に比して値段が云々といった具合に何か仕事をしたりすればそれこそピンハネするかの如く悪し様に言うのは結構見受けられる。その上今ではインターネットの普及で値段を比較できることも簡単だ、あっちの店(会社)で安くやっているならこっちでもこの価格でやれってことはそれこそ彼方此方で見受けられる。

しかも、そこで叩かれるのは例えば業績のいい企業の役員とか成績の良いプレーヤーに向くことは先ず無い。イチロー中田英寿が年に何億稼いでも、それを批判する声は皆無だったりする。企業の役員報酬だって、(政府から補助金を出して貰ったりするなど何とかやっているとこならまだしも)例えばトヨタあたりの経営幹部やトップが報酬を貰い過ぎだ!って非難は皆無ではないにしろ余り広がっていない(現実にはクルーグマンが指摘している様に「おそらく殆どは既成のヒエラルキーを登って今の地位を得、技術革新に対する対価ではない」訳だが)。

だが、これが例えば公務員(それも首長から一般職員・果ては非常勤で雇用されてるのまで含めて!)や生活保護の受給者・あるいはちょっとした中小企業や個人事業だとどうなるだろう。それこそ身を切れ!とかもっと工夫すればコスト削減できるだろ!とか贅沢だ!だの、それこそ少しでも冗費すればピンハネ・無駄遣いの如く非難の大合唱。当事者の生活事情はお構いなしに叩き易しを叩いている面がある訳だ。

 

「らーめん才遊記」の真理──金が介在するが故に責任が発生する

 ここいら辺りで少しばかり話題を変えよう。既に完結してしまったが『ビッグコミックスペリオール』で連載されていた「らーめん才遊記」というのがある。

らーめん才遊記 コミック 全11巻完結セット (ビッグコミックス)

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 その中で(漫画の舞台の)「らあめん清流房」のアルバイト店員を主人公の汐見ゆとりが面接した際、余程のラーメンフリークらしき者が応募してきてバイト代はいらないから何が何でも働かせてくれと意欲たっぷりにアピールしてくる。ゆとりは、その応募者は結構有望なんじゃないか?と「清流房」の社長・芹沢に上申するのだが、芹沢は「馬鹿か、お前は。タダでもいいなんて言う奴は論外だ」と一刀両断する。そして、こう続けるのである。

ほとんどのバイトは1時間働いてようやく千円前後の時給を貰える・・・・・その大変さを知ってる人間なら、たとえ意気込みを表わす言葉にせよ、「タダでもいい」などと軽々しく口に出したりしない。

 そして、こう断言する。

金を払う』とは仕事に責任を負わせること、
金を貰う』とは仕事に責任を負うことだ。
金の介在しない仕事は絶対に無責任なものになる。

 利潤や報酬をピンハネとか非難する人間に比べれば、この芹沢の言は多くの真理を言い当てていると言って良い。冒頭の例示に出てきた画商だって、例えばどんな顧客なら買うだろうか・どれくらいの価格なら妥当なのかという目利きをする、絵を買ってくれそうな顧客・パトロンを探しに営業や顧客開拓をする、泥棒に盗難されたりカビなどで劣化しない様にチャンと管理する、など色んなところで責任を負う仕事をやっている。少なくとも「仲介手数料程度」ばかりで軽口を叩けるような仕事ではない。

しかし、利潤は世界からのピンハネなどと言う人間には、こうした金の遣り取りによって責任を負った仕事が可能となるという現実が見えていない。だが悲しきかな現実には利潤ガー原価ガーと騒ぐ人々が世に憚り、その結果ホントなら捨てられるはずだった食品廃棄物が激安の「目玉商品」として店頭に並んだり、6,70代の老人が慣れない大型バスを運転した挙句10数人もの死者を出す大事故を起こすという誰も得しない社会になってしまう訳だ。